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人付き合い、距離、疲れ、に関する技術。

最近人付き合いで疲れて、死にたくなってる。同居人たちと僕の人付き合いの作法は違う。というか、それぞれが個人なので、人によって接し方は変えるべき。これは、べき、を強く言いたい。僕の場合は、人と仲良くなるまでに、時間がかかる。 


例えば会って数回や、年下の方々とは丁寧語で喋っていたい。(年齢関係なく全ての人と丁寧語で喋っていたい。というか、丁寧語のほうがリラックスする。だって、丁寧なんだから)それを指摘するのは野暮だというか、その伝え方がとても難しい。5年ほど前に一度、丁寧に伝えたことがあるが、当時、相手はそのコミュニケーションのあり方に強く関心してくれて、それ以降、さらに仲良くなれた。


が、そんなことは稀だと思うし、ダルいとか、面倒な人に時間とか、心を使いたくないから、交流をフェードアウトする。そういう人がほとんどだと思うし、嫌なことを伝える相手は、慎重に選ぶ。


「ぼくはまだ、心を開いていないですよ、友達ではないから」


サン・テグジュペリの狐とバラ、フロムの綺談のように。コミュニケーションのスタイルは人それぞれで、初めて行った家で「Make yourself at your home」と言われても、それは相当な技術がいる。少なくとも今の僕には。ましてや、小田原の家がリラックスできる場所じゃないのに。


小田原に人が来てくれることは、有り難い。そして、家も便利な立地とは言いづらしい、風景が素晴らしいところだから、長居したり、一泊したほうがいいと思う。けれど、実際問題、人がいると、疲れる。気を使う。ぼくは特に気を使う。自分の生活リズムが崩れる。頭のなかがごちゃつく。楽しいことももちろんある。かといって、人との出会いは美しいだけじゃない。どんな人とでも、疲れるのだ。恋人だって、姑だって、みんなコミュニケーションは疲れる。


第一に自分の生活が大事だ。来てくれることは嬉しいが、それよりも、自分の心の平穏さを確保したい。それが、家の第一義的な役割だと思う。だから、「人が遊びに来ない家」は、魅力的だと思う。人が来るから掃除するのではなく、自分のためだけに、空間を整える。もしくは、絶対に他人の侵入を許さないスペースを持つこと。強く境界線を持つことは、心の安寧に必要である。沢山の人が来る家に住み、沢山の人の家に泊まらせて頂いた今の気持ちである。


話は戻る。


年に一人でも、友達ができれば贅沢なことだと思う。そしたら、百歳で死んだら友達百人できるかな?小学一年生になったからといって、友達100人目指さなくていい。みんなと仲良くならなくていい。たった一人でいいから、友達ができたら最高だ。みんなと仲良くなろうなんて、思うな。もし、子供ができたらそう伝えたい。友達が出来なくても、自分を嫌いになるな。安易に友達という言葉を使ってしまうな。友達は、5人もいたら、上等すぎる。


そんなわけで、確かな言葉をもとめて、


長田弘さんの本を買った。

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