SNSの普及した令和のご時世に「年賀状はコスパ抜群」と叫んでしまう、時代に乗り遅れた不マメなおっさん、オレ。
昔からこの時期が好きだ。
クリスマスに、大晦日に、正月休み。
大イベントが迫っていると思うとワクワクする。
以前も少し書いた。
何事もあくまで楽しいのは直前であり、その途中ではない。いざ正月の途中になってしまうと、その喜びを実感するのは、いささか困難である。
週末を迎えるにあたって感じる興奮のピークがあくまで「金曜日の夜」であり、
決して日曜日の朝ではないことと全く同じ脳内システムで、正月や週末も、終盤にもなってくると喜びなどは跡形もなく消え去り、そこには言いようの無い切なさと虚無感、絶望だけが残るようになってくる。
だから今が一番楽しい。
あんなことをしたい、こんなことをしたい。
忙しいけれども、イベントに向けて準備する今が、遠足前気分のように楽しくて仕方がないのだ。
小学生のころ、お正月の楽しみといえば、年賀状のやり取りだった。
毎年12月になると本屋へ行き、おしゃれなスタンプや干支の絵のサンプル本をくまなくチェックし、どうすれば友達にインパクトを与えられる年賀状をつくれるのか、
それに時間をかけて試行錯誤していた。
今でも原理はさっぱりわからないけれど、特殊なインクを使ってはがきにスタンプを押し、そこをドライヤーで温めると、もこもこ膨らんで立体的になるものがボクの中ではお気に入りで、小学生時代はコレを多様していた。
しかし中学、高校にもなると、
友達に送る年賀状にこだわりをみせること自体がこっぱずかしくなり、無地にスタンプを数個押して、一言二言でオワリ。
挙げ句、大学でスマホを所有したころには、“あけおめ”メールで年始の挨拶を終えるようになり、
もはや我が人生における年賀状文化はここで完全に途絶えてしまった。
二度と年賀状を書くことはあるまい、
そう思った20代前半のころ。
しかし、時は流れる。
20代の後半になり、友達の結婚式に出席するようになってからは、
「結婚しました」
「子どもが産まれました」
の報告を年賀状で受け取るようになり、
それに返信する形で、年賀状文化が少しずつ蘇り始める。
そして遅ればせながら自身が結婚したことで、同じようなやりとりが急速に広がっていき、結果的に今、
毎年40人と年賀状を送り合っている。
意外ではあるが、我が人生における年賀状の華麗なる復活劇。
今のボクの正月の風物詩の1つとして立派に地位を築いている。
我が家の賀状は毎年、“子どものみ”の写真に一言、二言添える。
年賀状の議論で、
“子どもだけの写真なんていらねー”、という批判的意見があることは重々承知の上。
その考えを最大限に考慮したうえで、
そして全力で考慮したうえで、
それでもなお。
ボクは一方的に“子どものみ”の写真を送りつける。
なんという親バカ。バカ親。
手抜きバカ。世間知らず。
子どもの気持ちをわかっていない。
もらったところで速攻、ゴミ箱行きなのにアハハのハー。
という声だろう。
そのとおり。
それらの指摘や感想は、
グーの音も出ないほどの正論であり、
届いた先で、年始からボロクソに罵詈雑言されている絵が浮かんで申し訳ないな、と思いはする。
が、
それでもなお、
一方的に子どもの写真を送りつける親バカ。
子どもの無邪気さを利用し、自身のアイデアの無さを誤魔化して、賀状を乗り切っちゃえ、なんてズルい思考が根底にあるのだ。
ちなみに2022年の寅年はこれ
今年の兎年はこれ
掲載写真は毎年、葉書いっぱいの1枚のみ。
コメント欄は二言レベル。
御覧の通り。
完全な手抜き賀状である。
ボロクソ言われているが、年賀状はコスパ抜群のコミュニケーション手段だと思う。
年に一度、かぎられたスペースに、ちょこっと近況を書き込むだけ。それでもこのやり取りがあるだけで、その人との「縁」は確実に保たれる。
スマホ不携帯、LINEの確認すらもせず
妻から日々怒られまくるほどに不マメなボクは、最近になってつくづく思う。
「結構、好きだな賀状文化」
LINEやSNSとちがって人間関係で疲れることがない。ノー天気、ノーストレス、ノートラブルをこよなく愛するボクにとってはそれが、一番。
LINEやメールだったら、
「あけおめ。今年は食事に行こうね」と前振りをして、相手の返信がきてから会話がはじまる。
でも賀状では、
「今年は東京に頻繁に行くから、そのときに食事でもしよね!」
と一方的に自分の近況報告、意思表示をするしかない。
返事は下手したら返ってこないこともある。
でもそれでショックを受けることはまずない。「伝える」ことが目的だから、ただ、伝えたいことだけ書いて送りつける。
受け取ってもらえさえすれば、
返事がなくてもいいのだ。
我が“子どものみ写真”が不愉快で「読まない」ことはできるけれども、基本的に賀状を「受け取らない」という選択肢はない。
そんな自分勝手が許されるのが、賀状であり、それでいて
「あんなに疎遠でありながらも、忘れられていない」と思ってもらえるのだから、
こんなコスパの高いコミュニケーションツールってないよね、
とズルいボクは、そう思っている。
今年は久々に手紙を書いた
期せずして10月から販売したマラソンTシャツ。全国津々浦々、我がnoteの読者さん総勢“152枚”買っていただいた。
これは率直にビックリ。近年で一番ビビった。冗談ぬきで、ありがたい、としか言いようがない。
あまりにも嬉しすぎたので
“全員に”一方的に感謝の気持ちを込めた手書きメッセージを入れさせてもらった。
しかしだ。
意気揚々とやり始めてすぐに感じた。
コメント欄に登場して頂いているnoterさんならまだしも、実はそうではないご購入者様の方が9割を占めており、
何を書いていいのか、
どうしたら自分らしさをこの数行で表現できるのか、これにすごく迷った。
こうなったら、
と、知り得た住所のみを頼りに、土地柄にちなんだボクのネタ的な内容を中心にしシャニムになって書かせてもらったが、脳みそを絞り出しながら152ノックを受けるうちに、
最初は迷いとともに負担に感じていたものが、次第に中高時代の手紙に感じていた手紙特有の独特な親密さやミステリアスな感じがフツフツと溢れ出してきたのだ。
そう。
手紙からはいつだって秘密のにおいがする。
手紙はいつも他の人には言えないことや、面と向かって伝えづらい本当の気持ちを閉じ込めて、こっそりと運ぶ。
手間をかけてでも伝えたいことがある相手だから手紙を書くし、
ボク自身ももらうとすごくうれしい。
手紙というのは、人に見られないようにこっそりと読んで、ひとりのときにひっそりと書く。どことなく秘密の空間でミステリアス。
noteのコメント欄とはまるっきり違う感覚がそこにはあった。
今年の年賀状は、、、
さて今年最後の更新となる来週は、
振り返りと、みなさんありがとう、そして“子ども資産”はどうなったか?
の記事だから、実質今日が最後の更新。
少し前まで「夏の北海道を知らないなんて人生の半分損をしているゾ」
なんて上から目線の記事を書いていたのに、本日は年賀状の話。
光陰矢の如し、歳月人を待たず
ボケーっと1週間に1回更新する程度だから、noteの中の人とのふれあいは、一年があっという間に始まって、あっという間に終わる。
でも、1つだけ確かなこと。
ボクは、今年もこれでもかってほどにnoteで自分をさらけ出しまくり、リアルで話す感覚で自身の感性を綴ってきた。
だからきっとnoteの中の人は分かっている。
分かってくれているのだ、
ボクという人間を。
だ、か、ら、
2022年、2023年の賀状をみて、
ゆづお氏は、今年はどんな年賀状を作ったのか。
これもきっとわかるだろう。
そう。
正解だ。
掲載する迄もない。
タイガース(虎)、
ジャイアンツ(兎)、
ときて
ドラゴンズ(竜)である。
これにて三部作完結。
正解じゃなかった人。それはエセ読者だ!まだまだ“しょーもなさ”がたらんな。
ということで、
次はヘビっすね。
アイデアないな、どうすっかな。。。
PS
ギリギリまで、Tシャツご購入者様に年始のギャグ(初笑い)で賀状を送らせて頂こうかと思いましたが、さすがにリアルで親バカのヤバいヤツと思われると思い、全力で制止しました笑
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