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「悪性です」

人は、あまりに驚きの出来事があると、感情を忘れて、時間が止まったかのようになってしまうとその時に知った。2019年の7月。40歳と1ヶ月。

1週間前の検査結果を聞くために入った診察室は、いつもなら医師と看護師1人のところ看護師が3名ほどいて「ああ、ただごとではないんだな」とうっすら予感した。その予感が的中し、自分のことなのになんだかドラマを観ているようで、やけに客観的に話を聞いていたように思う。

ことのはじまりは7月下旬、告知から20日ほど前。フィリピンのセブ島に半年間の就学をしていて、帰国後に甲状腺の定期検診を受けに行った時だ。なかなか疲れが取れないなという感じはあって、そりゃ半年も海外にいて慣れない環境で生活をしていたのだから当然だ、くらいに思っていた。


甲状腺とは

簡単に甲状腺について説明をしておく。

<引用>国立研究開発法人国立がん研究センター
https://ganjoho.jp/public/cancer/thyroid/about.html

甲状腺の異常と言えば有名なのが、歌手の絢香さんに見られる「バセドウ病」である。これは甲状腺ホルモンが出過ぎる場合で、逆に分泌が少ない場合が「橋本病」という症状。私はこちらの傾向がある体質だった。ホルモン剤を投与しなくてもすむくらいなので、経過観察のために定期検診に行っていた、というわけだ。

精密検査を受ける

いつものように喉元の超音波検査をしたところ、ちょっと怪しい影があると判明した。甲状腺に限らず、人は疲れていたりすると歯が痛んだり数値が変わったりするものなので、しこりのようなものはただの炎症かもしれない、との話だった。

念のため細胞診(さいぼうしん)をしましょうと勧められ、喉に針を刺して細胞を摂取する検査にうつる。これが痛いのだ。私は採血が嫌いで、注射針も嫌いだ。それを喉に刺すのだからたまったもんじゃないけれど、精密検査だからしょうがない。これで何もなかったら検査損。私の痛みを返せ!くらいに思っていた。

検査後から結果がわかるまでの日は、いやいやまさかね、と楽観的に考える自分と、がん家系(祖父母ががんで亡くなっている)だからなあ、と冷静に考える自分が行ったり来たり。悩んでいてもしょうがないので、もしそうだったらどうするかみたいなシミュレーションをしたり、ネットで情報を調べたり、やはりちょっとソワソワしていた。
そして精密検査の結果を聞く日が来た。


「悪性です」

甲状腺乳頭がんが、左側(左葉という)にできていた。
正直なところ、どんな反応をしていいかよく分からなかった。私は感情表現が豊かなほうなのだけど、意外なことにドラマや悲劇のヒロインのように泣き崩れる、なんてことはなかった。事実は事実。受け止めて、どうするか。

医師の説明によると、乳がんなどと違って甲状腺の検査を受ける人は少ないため、一生発見されずに長年ひそんでいて晩年で悪さをし大きな腫瘍になってしまうパターンも多いという。現在、何か気になる症状が出ているわけでなければ、このまま放置しても命に関わるような病状になるわけでもないらしい。
「命に関わるがんではない」。この事実は不幸中の幸いとも言えるが、その分やっかいだ。判断に迷う。どうすりゃいいの?

小さいけれど大事な臓器
<引用>国立研究開発法人国立がん研究センター https://ganjoho.jp/public/cancer/thyroid/about.html


命に関わるとは言えないがんとどう向き合うか

手術することのメリットとデメリット、しないことのメリットとデメリットについて医師の見解を聞く。私は下記のように理解した。

①手術するメリット

一般的に左右にある臓器はひとつ取り除いても、もう一方が機能していればなんとなる場合が多く、甲状腺においても同じで、左葉を切除しても残った右葉から十分なホルモンが分泌されれば問題ない。小さいうちに切除しておけば、腫瘍が育つ心配がない。
 

②手術するデメリット

甲状腺は声帯に巻き付く形で存在しているため、手術で該当部分を開いてみたときに癒着をしていた場合に、傷付けないように切除ができるか懸念がある。もし癒着がひどく声帯に影響が出た場合は、高い声が出づらかったり枯れてしまったり、最悪の場合は声が出なかったりする可能性がある。

③手術しないメリット

手術しなくて良い。笑

④手術しないデメリット

今よりも定期的な検査に行く手間や、万が一にも悪化してしまった場合の手術が大変になる。もし転移してしまえば、手術も難しくなるだろう。


以上の考えをもとに決断に至るわけだが、かなり悩んだ。家族にも相談した。ネットでも調べた。でも確実なものは出てこない。当たり前だけれど予後は人によるし、やってみないと分からない。

私の中での不安は1つだった。声に影響が出るかもしれないこと。講師業を含め、人前で話す仕事をしているので(当時はFacebookライブでの配信もしていた)、声に影響が出るのは辛い。

でもそれは該当部分を切開してみなければ分からないという博打みたいなことであって、杞憂してもしょうがないのだ。不安といえばそれくらいで、手術や入院はこれまでにも何度か経験しているのでその不安は大きくなかった。

その不安をどう打ち消すか、、、ここが私らしいのだが、ポイントとなったのは「保険」だった。がん家系と認識していたので、がん保険に入っていた。「がんと診断されたら何百万」みたいなやつだ。これまで幸いにも使わずにいてきっとこれからも縁がないかもなあと思いつつも入り続けていた保険が、今こそ出番だ!とばかりに頭をよぎった。

好奇心や経験欲が強い性格なので、あまり悪さをしないがんとずるずる共存するよりもいっそ手術をしてしまう方に気持ちが傾いていた。体験記として書くことができたり、誰か同じような経験をするかもしれない人への情報提供ができたり、この経験が役に立つのではないか!と前向きに捉えていた。この辺りで気持ちが固まった。よし、手術をしてみよう!

手術すると決めてから取り組んだこと

①予定調整

手術日が9月5日に決まり、Xデイに向けた残り40日と術後の予定調整をしていった。周りには言わないつもりで、できるだけ支障のないようにスケジュールを考えた。

実は9月末から予定していた再びのセブ視察旅行を延期するか悩むところだったが、とにかくその時までには術後の状況が落ち着いていますようにと願いつつ、旅程を変更することはしなかった。
4年経った今、Googleカレンダーを見返しても、病人?とは思えないようなスケジュールだ。

手術を控えていると言っても何か症状が出ているわけでもないので元気だ。むしろ術後に行動が制限されることを予想して、前倒してやることも多くなり、忙しくなるのは当然かもしれない。LINEをさかのぼると「カラオケに行きたい」とつぶやいていたようだ。歌い納めにならなくてよかった。笑

告知されてから1週間後のスケジュール。まあまあ過密。


入院を挟んだ1ヶ月のスケジュール。実はこのころTOEIC勉強の最中だった。
 

②食事制限

知り合いの医師から、術後の回復のためには小麦粉と砂糖をやめて肉や豆類などタンパク質をしっかり摂って体力をつけることを勧められたので、8月半ばから1ヶ月はビーガンさながらの食生活。

いざやってみると世の中には小麦と砂糖が溢れていて食事制限は大変だった。外食すると摂取が避けられないので、できるだけ自宅で食事をつくり野菜を中心にお肉や魚、豆腐などを駆使して健康管理に努めた。料理の腕も随分と上がった。

手術に耐える体づくりや、術後の回復を早めるためにも、食生活はかなり重要だと体感した。入院自体が体の動きや運動を制限するため筋力も衰えてしまうし、皮膚を切ったり臓器を切除する行為自体が体にダメージを与えるものだ。(だから、がんを手術ではなく他の療法で治療する方法をとる人もいるのだと思う。)

手術前にどれくらい食べたり動いたりできるかは病状にもより人それぞれだとは思うが、可能であれば、その日までに免疫力を高めて備えられるのが望ましい。

泣く泣く小麦粉断ち。でもその成果は大きかった。

 
8月末、いよいよ入院が来週に迫った頃、両親が大阪から鹿児島に来て家族の立ち合いのもと説明を受けて承諾書を書いた。両親は心配そうだったが、私はわりと冷静だった。これも人生。きっと話のネタになる。体調を整えてその日を待つだけだ。

手術前に確認しておいたほうが良いこと

ここまでのところで、2つ情報提供をしておきたいと思う。

①保険について

「診断されたらお金がもらえる」と言うのは、保険会社によるのだと思うが、私の場合は「悪性腫瘍」と告げられただけではだめで、切除したものを病理検査に出して、確かに悪性腫瘍であることが確定しなければ受給できなかったのだ。もし今保険に入っている、または入ろうと考えているなら、その点をしっかり確認しておくことをおすすめする。

②後遺症について

声については注意深く聞いていたが、それ以外は深く考えていなかった。例えば傷跡については、「首の皺に沿ってこれくらい(親指と人差し指で5センチくらいのジェスチャー)切るだけなので、目立ちませんよ」とか、「術後はちょっと飲み込みづらいとかありますが、日にちが経てば元に戻ります」とか、まあまあにごした感じで医師は説明をする。

これは医師が悪いと言っているのではなくて、人によるし、腫瘍の状態にもよるのだと思う。実際は「誰も確実なことは分からない」のだろう。

傷跡については確かに半年くらいで目立たなくなったが、日に当たらないように外出時はスカーフを首に巻いてケアをする日々だったし、飲み込むときの違和感や異物感も半年以上続いたように思う。

食べるのが好きな私だったが食べるのが億劫になり、おかげで痩せた。当時はこれが永遠に続くのかもしれないと言う絶望感があったが、日にち薬とはよく言ったもので、すべて解消された。

術後の「こんなはずじゃなかった」話はあとで詳しく綴るとして、時を術前に戻す。

手術後にリアリティが増してくる

9月4日に入院した。大部屋が空いていないらしく個室に案内された。明るい日差しが入る窓から見えるのは高校の校庭。明日はどのように見えるのだろう。

9月5日、朝は軽い食事をとり、13時の手術に備える。手術は過去に何度か経験しているが、麻酔が十分に効かないで途中で目覚めたらどうしようといつも思う。そんなことはまああり得ないし、今回もマスクから空気を吸っている間に眠りに入り、目覚めたら病室だったのだが。

手術日の朝ごはん。

と言うわけで、手術は成功し、全身麻酔から目覚めた私は意識朦朧としながら一晩を過ごした。翌日になってようやく状況を把握する。確かに飲み込みづらいし、うまく話せないが、声は失っていないようだった。傷跡にはテーピングされていて様子が分からない。半透明のテープの上から見るには5センチでは済んでいないようだ。ああ、切ったんだ、と思った。
 
がん告知されて手術をするまで50日。悲観的な感情よりも好奇心や反骨精神のようなものが上回っていたが、術後2日経って自分でシャワーに入って鏡を見た時に泣いた。

首には8センチほど切った跡があり、自分の顔がその上に乗っかっている。シワに沿って綺麗に切られてはいるが、数日後の今は赤身と膨らみが目立ち、これでは人から見える場所に大きな傷が残ってしまう(と当時は思っていた)ことへのショックが大きかった。この時はじめて、手術を選んだことを後悔した。もちろん先に書いたように綺麗に完治したのでそんなにショックを受けなくても良かったことなのだけど。

術後は大部屋に入り、他の乳がん患者さんとともに過ごす数日だった。甲状腺がんは私だけだった。昼間はおしゃべりをする時間もあるが、なんとなく甲状腺がんは乳がんより軽いように見られていて不思議な気分だった。命に関わらないとはいえ声を失うかもしれなかったことを考えると、どちらがマシとは言えない。病室の居心地の悪さもあったし、もともと眠りが浅く大部屋だと寝られないこともあって、退院が待ち遠しかった。

不安や痛みで眠れない時は丹田呼吸で気持ちを落ち着かせた

私が入院した病院は食事が美味しいことで人気で、毎食とても楽しみだった。術後はご飯がお粥になったくらいで、栄養を考えて魚や肉などのおかずは普通に用意されていた。お粥生活から少しずつ普通食に戻り、食事が楽しみになってきたころ退院した。

健康的に痩せそうな食事

結果としては1週間の入院だった。心配した癒着は起きておらず最小限の切除で済み、甲状腺が右葉のみになることで心配されたホルモン分泌も今のところは問題なく、薬の服薬も必要ないとのことだった。

自宅では毎日シャワーの後に自分でテーピングをする。傷に合わせて一枚のテープを貼るのではなく、細かく切ったテープを傷に(傷を含む上下の皮膚を持ち上げるように)沿って少しずつ重ねながら貼っていくちょっと変わった方法で、正直とても面倒臭い。だがこの1枚1枚をしっかり貼っていくことで、傷跡の治り方が変わってくると聞いて頑張った。術後3ヶ月くらい続いたように思う。

がんは術後10年は再発の経過観察が必要なので転移は注視していかなければいけない。今でも半年に一度は血液検査や超音波検査に通っている。今年で4年が経った。もうすぐ折り返し地点に来る。

健康な心身で仕事や生活できることのありがたさ

幸いなことに今、元気に暮らしている。疲れやすいことや風邪をひきやすいなどの心配はあるが、それは甲状腺のせいというより加齢に伴う自然現象。高い声が出づらくなってカラオケの時に悔しい思いをするが、おそらくボイストレーニングをすれば鍛えられるのだと予想している。

もっと言うと、がんになる前よりさらに仕事に精が出るようになった。心身のメンテナンスにもとても留意している。声を失うかもしれない恐怖を味わったことで、いつまでも健康でいられるわけでないと痛感した。できる時にできることをできるだけ存分に。仕事ができることが楽しくて、ありがたくてたまらない。

この記録を書いているのは2023年の11月。4年前のことなので細かいところは思い出せないでいるが、いくつかの印象的なシーンは鮮明に記憶に残っていて、書くことができた。

手術から半年くらい、傷口が太陽に当たらないようにするため外出時はハンカチをスカーフのようにして首に巻いていた。周りは事情を知らず、オシャレのつもりだと思い込んでいたらしい。いつもは手を拭くだけに留まっていた色鮮やかなハンカチ達もここぞとばかりに活躍してくれた。

私の首を守ってくれたハンカチ(一部)


術後5ヶ月で再びセブの語学学校へ。ただしこの後まもなくロックダウン生活が訪れる。


恐れを超えて、誰かのための記録として残したい

今なぜ書こうと思ったか確かな理由はないのだが、4年前の胸の内として、なかなか自分が知りたい情報を知るすべがなかったというのもある。事例として参考にしてもらえればと思った。
そして当時の私は、「体験記を残すことで誰かの参考になるかもしれない」と意を決していたにも関わらず、なかなか言語化できなくて、ずっと未完了になっていたのも1つの理由だ。ビジネス用のブログで書くのもそぐわないし、SNSで気軽に書く内容でもない。どういう方法で誰かの役に立てるものとして残せるかを考えた時にnoteが頭に浮かんだのだ。

逆に、書くことへの恐れもあった。がんが発覚した時に周りに言えなかったのは、「心配をかけたくない」「仕事に影響が出たらどうしよう」だ。今回この記事を書くことにより、周りから心配されるのではないか、長期の仕事は任せてもらえないんじゃないか、と不安もある。実際はこの4年、甲状腺はすこぶる良好だし、これが事情で仕事に穴を開けたこともない。
でも、そんな恐れを超えてでも伝えたいし残したいと思った。

細かいところはご容赦ください、と言い訳をしておいて、とは言え、普通に生活していてがんを告知された場合に、人はどのような感情になるのか、どのような選択肢がありリスクがあるのか、みたいなことはしっかり書けたので、参考にしてもらえたらここで公開した意味がある。

もしあなたが、そして周りの大切な人が、がん告知を受けて思い悩んでいるとしたらこの記事を勧めてください。一人の体験記でしかないけれど、これを読んで少しでも不安が和らいだり、選択の材料になったりすれば嬉しいです。


最後に裏話を少し。
術前に手術のリスクについて考えた時、もし声が出なくなったらいよいよ執筆活動で生きていく覚悟を決めていた。が、良いか悪いかおしゃべりは健在なので、執筆活動に専念する道はなくなってしまったが、こうして経験を語り、残すことができる場があることが本当にありがたい。

生きていればいろんなことがあるけれど、事実は変えられなくても解釈は変えられるし、行動は自分の意思で変えられる。
自分で選んで自分で決めたことであれば、それは全部正解だ。

月並みだけれど、今ある命に感謝して、毎日を悔いなく生きることが、私たちにできる唯一のことなのではないかと思う。


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矢野けいか|着火ウーマン|書籍『場づくり仕事術』著者|キャリコン|コーチ|人事戦略パートナー
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