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あの頃のmixi日記と、今のnote。私の文章は何か変わったのだろうか

確かあれは大学生の頃だったか、社会人になりたての頃だったか。毎日のようにmixiにログインし、日記を綴っていた時期があった。

久しぶりにそんなことを思い出し、mixiにログインしてみる。でも、その頃のメールアドレスもパスワードも、もう分からない。

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昔の手帳やパソコンを引っぱり出せば、きっとどこかに手がかりはある。直接問い合わせてもいい。けれど、今はそんな気持ちにならないし、この先もきっと同じ気持ちだろう。

私の日記は、今もネットの海に漂っているのだろうか。できることならそのまま沈んで、埋もれて、なくなってしまってもいい。

私は、昔書いた文章を読み返したくないタイプだ。


あの頃は、本当にたわいもない個人的な日記をアップしていて、それはもともとmixiが「完全招待制」だったからでもある。あくまで仲間うちのにぎわいが中心の、とてもクローズドなSNSだった。

私を知っていることを前提に書いているので、パーソナルな日記でよかったし、そんなノリがふさわしい場でもあった。

あれから年月が経ち、いつの間にか私はmixiを使わなくなり……特に特別な理由もないけれど、ブームが去るにつれて私も離れていったのだと思う。

そして今、私はこうして毎日noteを書いている。行為としては、あの頃のmixi日記とさして変わらない。

私の文章は、何か変わっただろうか。


変わった点を挙げるならば、その一つは「相手」が変わったこと。

mixiで書いていた頃は、相手は「友達」だった。対して、今書いているnoteの文章は「不特定多数の誰か」に向けている。クローズドかオープンか、この差は大きい。つまり、見られることを意識した文章か?という違いだ。

それから、私は書くことを仕事にしたということ。

私は今、編集・ライターとして活動している。書くことで対価を得ている、一応プロと呼ばれる立場になった。だからこそ、内輪ノリの適当な文章を世に出すわけにはいかない。

分かりやすいか・リズム感は悪くないか・事実と相違はないか・不適切な表現はないか・構成は破綻していないか・結局何を伝えるのか――気軽に書いているようで、それなりに気を配っている。ありがたいことに、多くの人の目に触れるのだから。

そして、今は「発信」を意識しているということ。

mixiは「日記」そのものだった。一方、noteの文章は私にとって「日記」ではない。日常生活の中の些細な気づきや思いを扱うものの、そこには必ず何らかのメッセージを乗せている。

メッセージ、なんてどこか空々しいけれど、
「こんな風に考えてみてはどう?」
「こういうことには注意したほうがいい」
「これを使うと便利だったよ!」
「こんな方法を知っていると役に立つかも」
「あなたの場合はどう?」
…というようなこと。文章を通じて何か少しでも役に立てるのなら、私はとても嬉しい。

以前視聴したnoteのイベント配信で、メディアには「視点の提供」が必要だという話を聞いた。私はこの言葉がものすごく腹に落ち、それ以降かなり意識している。

あくまで個人の発信ではあるものの、私にも何らかの「視点の提供」ができたら。文章を通じて、私はそういうことをしたいのかもしれない。mixiで日記を書いていた頃は、当然、こんな意識なんて全くなかった。


文章自体のクオリティはどうだろう。

経験とともに、語彙や表現、文章作成のスキルが身につき、ある程度文章力は伸びたはずだ。「社会人っぽい文章」も書けるようになった。あの頃はまだ、今よりもうんと世間知らずだった。

それでも本質の部分では変わっていない気がする。というより、変えようがないのかもしれない。文章を書くことは、自分の一部を削り出すような作業であるし、良くも悪くもその時の自分がありありと反映される。

だから、過去の文章と今の文章を比べた時に、たとえ文章が上達したように見えても、私がにじみ出ていることには変わりない。

昔書いた文章を読み返したくないのは、それに直面することが恥ずかしく、もっといえば怖くもあるからだろう。


けれどたまには過去の文章を思い出し、振り返ってみることには意味がある。読み返さなくてもいい。その中で、成長を感じたり、忘れていたことや変わらない何かを発見できたりするかもしれない。

それでは、また明日。



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