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私、あなたのために生きていないから。

お風呂に入っていると不思議なもので、ふとした言葉が“降りてくる”ことがある。

昨日はお風呂に入りながら、自分のコンプレックスについて考えていた。娘は在宅勤務のパパと入るというので、お言葉に甘えて、ゆっくりと一人で。

みんなそんなものかもしれないけれど、私もたくさんのコンプレックスを抱えてきた。自分の嫌いなところ、直したいところ、指摘されると傷つくところ。

娘を出産してからは自分のことが二の次になり、自分のコンプレックスへの関心はだいぶ低くなった。それでもやっぱり、気になるところはいくつもある。

けれど昨日は、なぜか強気だった。

「そもそも、本当に直さなくちゃいけないんだっけ?」

私のコンプレックスに対して「不快だから直せ」と言われたことは、考えてみれば一度もない。たぶん誰にも迷惑はかけていない。そもそも人は他人のコンプレックスについて考えるほど暇じゃない。

自分にとって嫌だから、認められないから、直したい、変えたいと思ってきただけ。

本当に直さなくてはいけないのか?
本当に?
どうして?
何のために?
誰のために?

コンプレックスがなければ、自分にもっと自信が持てると思っていたのだと思う。つまり、自分の自信のなさの原因をコンプレックスに押し付けて「〇〇さえなければ△△なのに」という可能性の中に生きている、そんな状態。

だけど、コンプレックスも、自信も、どちらも同じように自分の気持ちの中の話。自分しだい、気の持ちようのはずなのに、どうしてこうも厄介な感情なのか。

それはやっぱり、周りが気になるから。たとえば無人島に一人で生きていたら、コンプレックスなんか気にすることはないはずだ。日本でいうコンプレックスとは“劣等”感を指すのだし。

劣等感――つまり、他の人に比べて劣っているという感覚。
他の人、って?

「私、別に、そんな人たちのために生きてない」

ここまで考えて、ふと、そんな言葉が頭の中に浮かんだ。

そもそも他の人のコンプレックスなんて、基本的にどうでもいい問題。まれに指摘してくる人にも出会ったけれど(悪気なくが大半)、私は別にその人のために生きているわけじゃない。そんな「他の人たち」に感情をずっと左右されるなんて、ひどくバカバカしい。

これはなにも、コンプレックスに限ったことじゃない。人と比べて落ち込んだり、あるいは人から何かを言われてムカムカしたり。そんな時には

「私、あなたのために生きていないから」

と、自分と他者の線引きをびしっと決めることが有効だと思う。自分の感情の手綱を、自分の人生にとって必要ない人に握らせてはいけない。自分は自分のために生きればいい。真剣に向き合うのは、大切にしたい相手だけで十分。

そんな風に考えてみるのも、アリだと思う。

それでは、また明日。



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