平壌の学生生活-後編-(平壌演劇映画大学シリーズ)#64
こんにちは。
今年の夏は台風や地震、強烈な暑さなどで大変ですね。
被害をお受けした皆さんに心よりお見舞い申し上げます。
今回は平壌生活に終止符を打ち脱北を決意するまでの内容を書いていて、いつもより長くなっています。しばらくお付き合いください。
「平壌の学生生活-前編-」がまだの方は下記のリンクからどうぞ〜。
2年生の冬休みで里帰りするとお父さんが脳梗塞と緑内障を発病していました。
北朝鮮は薬もなければ、まともな手術も受けられないため、脳梗塞は悪化する一方。左半身の麻痺が顕著で、性格も子供のように我慢ができずすぐに大声を出すように変わりました。
緑内障により眼圧が上がったことで激しい痛みが収まらず、左目の視神経を切除する手術を受けたタイミングでもあったようです。
私は平壌で暮らしていたため、このような話を聞いて心配する以外にできることはありませんでした。
それから、しばらく経った7月のある日。
講座長(担任)に呼ばれクラス全員が集まりました。
金正日将軍様の愛のプレゼントが届いたとのこと(急に何があった⁈😅)
プレゼントの内容は、パソコン2台と日本のどこにでも売っているような化粧品の入った箱が10個ほど。
その中には派手な色のアイシャドウやリップ、8色ほどのファンデーション、筆などが入っていました。もちろん私たちは感激したような表情で目に涙を浮かべながら受け取りましたが、内心では苦笑いしていました。
実技で使っていた道具類(美術用品、ヘアカットに必要なもの、化粧道具、ウィックやヒゲ作りに必要なものなど)は、自分で購入したものを持っていたからです。
愛のプレゼントは自由に使えるわけでもなく、「親愛なる金正日将軍様からのプレゼント」という表題とともに飾られることになりました。
一体、何のためのプレゼントだろう…と思ったものです。
そして7月の終わり頃、またもや全員が集められました(~_~;)
今度は何だろうと思っていたら、金正日将軍様の好意でフランスのメイクアップアーティストを招待したため、夏休みの期間で10日ほど講座を受けることができるという話でした。参加人数は30人。
これもまた”愛のプレゼント”だったのです。
北朝鮮で外国人アーティストの講義を受けることはほぼ不可能なため、否が応でも期待は膨らみます。クラスメイトは6人なので当然全員が参加するだろうと思っていました。仮に成績順で選抜されるとしても、その時まで私の実技の成績は一位だったので、気にも留めなかったのです。
しかし、講座への参加者として名簿に名前が載っていたのは3名分だけで、その中に私の名前はありませんでした。
後ほど聞いた話では、その講座には音大や俳優学科の学生を含め、社会人まで参加するとのこと。容姿が優れた学生が選ばれると同時に、当然ながら多額の賄賂が取り引きされたと思われます。
その講座の統括を行うのは、私の担任である講座長だというのです。
私は講座を受けることはできなかったのですが、当時はそれほどダメージを受けませんでした。参加できないクラスメイトは他にも2人いるしと、その事実を受け入れようと努力しました。
父の体調が気がかりだったというのもあります。
北朝鮮は夏休みが短く、冬休みは燃料問題があるため長いです。
講座に参加できなかったのは残念でしたが、夏休みの間に里帰りをし、父親の病状の確認をしたかったのでむしろ良かったと思うようにしました。
お父さんの病状は悪化する一方でしたが、お母さんからは心配せず勉強に集中するようにと言われました。
大学に復帰してみたら、なんとメイクアップアーティスト講座(第2回)の開催が決まったという知らせを受けます。
しかし、今回も名簿には私の名前がありませんでした。前回、私と同様に参加できなかったクラスメイト2名は、名簿に名前が載っていたにも関わらず、です。
さすがに我慢できず、講座長に理由を聞きにいきました。北朝鮮ではこういう時に訴える場所はなく、泣き寝入りするのが一般的です。
しかし、講座長との関係性が良かった(と当時は思っていた)こともあり、勇気を出して行ってみることにしたのです。
私の質問に講座長は冷ややかな表情で応えました。
「田舎で暮らしていた敵対階級の帰国者の娘が平壌の大学で学べるだけでもありがたく思いなさい。今回の講座に参加するなど欲張りが過ぎる」と。
その一言を聞いて、私は金属バットで頭を殴られたような衝撃を受けました。
ショックが大きすぎ、それから2〜3ヶ月は気もそぞろだったのかあまり記憶がありません。
クラスの中で受講していないのは私だけ。そして俳優学科でも多くの生徒が参加していました。
忘れようにも、実技の授業で担任が毎度のように「フランスの先生も言ったでしょう。◯◯しなさいと」などと言い、それを聞いた他のクラスメイトも訳知り顔で頷くといったことが繰り返されます💧
私は場違いの学校に来てしまった事実を改めて突きつけられ、完全に一人ぼっちになってしまいました。
しかし、高等中学校にきちんと通えなかったことがコンプレックスであった私は、今のタイミングではとりあえず我慢して、大学を卒業したら地元に戻ろうと自分を励ましました。
一方でこのまま北朝鮮で生活を続けたとして、”私に未来があるのだろうか”という不安も募り、悶々と考えていたのです。
11月あたりになると、私のメンタルはボロボロになっていました。
以前のように勉強に集中することはできず、父のことも心配で、母に会いたい気持ちも強く、”どうにでもなれ”と自暴自棄になっていました。
講座長に「冬休みまで待ちたいけれど、父のことが心配なので少し早めに家に帰らせてください」とお願いをしてみることにしたのですが、講座長は「ダメだ」と即答しました。
私は耐えきれなくなり、担任が止めるのを無視して実家に帰ってしまいました。
北朝鮮では、無断で属している組織から離れることは大問題です。
ただ、現実にはそういったことはたくさん起こっていて、賄賂で何とかなる部分でもありました。
家に帰ると母はびっくりしてしていましたが、きちんと私の話に耳を傾けてくれました。
そして、12月の終わり頃、家に講座長が来ました。
無断で組織を離れたため、様子を見に来たとのことです。
私の家の経済状況は、食べ物がなくて飢え死にしてしまう人に比べれば遥かに良いものではありましたが、平壌の大学に何の負担もなく送り出せるほど豊かではありませんでした。
数年に一度、日本から10~30万円の援助を受けていたものの、基本的には母が商売で稼いだお金で生活していました。商売がうまく行かない時だけ仕送りに手を付けるような形を保っていたのです。
日本の親戚も何十年間も援助し続けることに嫌気が差し、「もう次回はない」と何度も言われていました。
しかし、援助がないと他の家と同様に”今日食べるものにも困る”生活を送ることになるため、必死に日本に連絡を取っておねだりし、親戚も仕方なく援助を続けるといった具合だったのです。
親戚も高齢になり、日本から北朝鮮に送金することが段々と難しくなっていく中で、私たち家族も近い将来、日本からの援助はなくなることを予感していました。
両親は娘の将来のため、特殊メイクという専門性を身につけることに賭けたのだと思います。しかし、私が見た平壌の人々の贅沢な生活は想像を絶するものでありました…
1994年に、無理して手抜き工事にて建築した家はあちこちが悲鳴を上げていて、壁紙が剥がれたり、床が傾いたりしていましたが、父の治療が優先され、家の補修などできない状況でした。
そういった時期に講座長が実家に来たのです。
平壌の人は余程の用事がなければ地方に行くことはありません。その点だけに着目しても私が起こしたことの重大さが伝わるでしょうか…
講座長は家の状況や父の病気などを見て何か感じるものがあったのでしょう。
他には何も言わず「冬休みが終わったら大学に復帰しなさい」とだけ言われました。
何度も書いていますが、平壌と地方の生活は差が大きいものの、お互い状況はほぼゼロに近いほど見えていません。実情を知ったときに衝撃を受けるのは当然といえます。
母からも北朝鮮では組織に属さないといけないため、大学に復帰するように言われました。
すでに私の気持ちは、入学前に戻れるのであれば絶対に行かないだろうと断言できるところまで来ていました。しかし、大学生活中に私を支えてくれた両親のために卒業までたどり着きたかった。そして、卒業後は里帰りして家族を支えたいと思い直したのです。
冬休み後、大学に復帰しました。
講座長、クラスメイト、他の教授たちの私に対する態度が変わったことは言うまでもありません💦
誰も私に近寄ろうとしない…
実技の時間には講座長が私の家に行ってきた話をするのです。
「(私以外は平壌生まれなので)あなたたちはどれくらい恵まれているのか知っているの?」
そして、先生は汽車で来たため、駅に溢れているコチェビや街の人々の服装、怒りに満ちた表情などに言葉を失ったとも話しました。
私が復帰してから、大学のトップらはどのような処分を下すか話し合いをしたそうです。
その結果、上層部に報告したら面倒なことになる(入学時の不正が明らかになる、また学生らの思想教育を指摘されるともっと大事になるなどの理由だっただろうと想像しますが)ことから、組織内で強く反省を促し、退学まではさせない方針に決まりました。
その結果、私は大学中から500人の学生が集まる壇上で反省文を読み上げ、多くの仲間に批判をされる「思想闘争会」の主役になりました。
北朝鮮では思想が疑わしい人に向けた「思想闘争会」というものが時々行われます。
まさか私がその壇上に立つことになるとは…
今の私は良いことでも、悪いことでも、大人数の前で話すのがとても苦手なあがり症ですが、この時の経験が原因ではないかと思います。
500人の前に立ち反省文を読み上げはじめて、まもなく責任者に「声が小さい」と怒鳴られました。
全身の力を振り絞って3枚ほどの反省文を読み終えると(仲良くしていた同期や先輩を含む)軍隊出身の学生たち(何人ぐらいだったでしょう…どうやって1〜2時間を乗り切ったのかも覚えていません)が大きな声で批判の声を上げました。
顔は俯き、呼吸は浅く、足元はガクガクと震えていました。
今思い出すだけでも心臓がドキドキして涙が溢れます。
終了後、壇上から降りるための階段が7段ほどありましたが、足に力が入らず転びそうになりながら席に戻りました。
この一件を経て、私は”もう平壌にはいられない”と強く思うようになりました。
しかし、すぐに大学を辞めることはできません。
「思想闘争会」に反感を持って退学したと捉えられる=政治犯になる可能性を疑われると考えて、大学生活を続けました。
そして、数ヶ月が過ぎ、最後の年である4年生の6月あたりになると、職場としての配属先について噂が回りはじめました。
私は誰もが配属されないことを望む「朝鮮芸術映画撮影所」に配属になるとのこと。
朝鮮労働党の指令で職場の配置が行われると拒むことは許されない、と考えた怖いもの知らずの私は「あの人」の事務所に向かいました。
そう、私を入学へと導いたトップ2です!
外で待っていると、今まさに帰宅の途につこうとしているトップ2が事務所から出てきました。彼は私を見て驚いたようでした。
私は念のため、あいさつと自己紹介をしてから、父親が病気に罹ってしまい、母親も介護にかかりきりで体調不良になり、私の大学生活を支える余力がなくなったことを伝えます。
私自身、両親のことが心配で勉強を続けられないため、退学したいと泣きながら訴えました。
それから数日後、講座長に呼ばれて事情を聞かれましたが、彼は私の家に来ているので納得の表情でした。
しばらくして、トップ2と講座長の力で私は「中退願」を書き、正式に中退が決まりました。手元に書類が来るまで1ヶ月ほどかかったように思います。
これまた何度も書いていますが、北朝鮮の全ての人は組織に入る必要があります。しかし、里帰りになった時点では、中退願が完成するまでの待機期間があったため、私はそれを利用して脱北する決意をしたのでした。
実際は脱北ルートが見つからず、それから1年ほど経って脱北を開始することになりました。
通常は役所のようなところの労働課で次の配置先の指令が来るのですが、それが来ないのです。
おそらく組織間の連携に問題があったのでしょう。
おかげで私は組織に属することなく過ごすことができました。
最終的に私を脱北に追い込んだのは大学での出来事でしたが、両親の思いが与えた影響も強かったです。なぜなら両親の口癖が「死んででも日本の土に埋もれたい」でしたから。
今になると2人の気持ちがよくわかる気がします。人は歳を取るとふるさとの懐かしさが増すのです。
私もあの北朝鮮で抑圧されて育ちましたが、家族や仲良くしていた友達など懐かしい思い出もたくさんあります。そして、私が脱北したことで被害を受けたであろう、たくさんの人々への申し訳ない気持ちも年々増している気がします。
両親がさらに歳を取り、身動きが取れなくなる前になんとしても脱北を実現し、2人が日本で生活できるようにしたかった。結局は叶わない夢となってしまいましたが…
映画大学を中退して里帰りした頃は「自分はメンタルが弱いのではないか」と自問自答した時期がありました。
しかし、日本で看護師になり総合病院に勤めた時、皮肉にも同僚から一番多く言われた言葉が「メンタルが強い」というものでした。
私のメンタルが弱いわけではなく、人を洗脳し抑圧するあの国が悪い。そして、その犠牲者の1人である私がもっと声を上げないといけない、と考えるようになりました。
今後も勇気を振り絞って、北朝鮮の実情を世に訴えるため発信を続けていきます。
引き続き応援の程よろしくお願いします。
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