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平壌の学生生活-前編-(平壌演劇映画大学シリーズ3)#63

こんにちは。

世の中はお盆休みですね。
この時期になると、どこにぶつければ良いのわからない深い寂しみに襲われるのは毎年のことです。

大学の話が終わったら、いよいよ家族の話を始めようと思っているのですが…

せめて両親のお墓参りに行けたらな…

そんなことを考えてしまう今日この頃です。

さて、前々回から私の出身校である平壌演劇映画大学について書いてきましたが、肝心の大学生活について今回から触れていくことになります。

そして、皮肉のように、希望に満ちていたはずの平壌での大学生活が、私を脱北へと駆り立てることになっていきます。。。

今考えても、私が映画大学に入学できたのは奇跡に近いことだったのですが、それからの学生生活は甘いものではありませんでした。

前回も書いた通り、平壌演劇映画大学の俳優学部扮装学科は2年に一度募集しているため、先輩後輩合わせて全ての生徒数は9人でした。2年上のクラスは3人、私のクラスは6人。
その中で地方出身は私たった一人!

この学科は数年前まで美術大学にあったそうですが、分野が違うということで映画大学へ移籍してきました。その学科の創設以来、私が初の地方出身者なのです。

地方からすごい金持ちの娘が来たと噂になり、知らない教授からも賄賂を要求される現実が待っていました。

ここで、母校の自慢を少しさせてください!
私が大学に通っていた頃、北朝鮮全国のすべての大学生が羨むポイントがありましたが、答えが何かわかりますでしょうか?
(オリピックの体操競技で例えるとG難度の難問です🤭)

北朝鮮のすべての大学生は春になると1〜2ヶ月の期間、田植えに動員されます。平壌にある大学も例外ではありませんが、映画大学と音楽大学だけは例外です。金正日は芸術分野に関心が高く力を入れていたため、未来の芸術家たちは農業に動員されることのないように指示したからです。
これは当時としてはかなり異例なことで、誰かに大学について聞かれた時はほぼ必ず話していた自慢になります💦

大学生活に話を戻しましょう。

北朝鮮における大学の1日の流れは朝8時にスタートします。90分講義が主体で、午前に3コマ、午後1コマの授業が行われるのが一般的でした。映画大学もだいたい同じ要領です。

日本を含む多くの大学のように、自分で履修内容を選択して時間割を立てることは認められていません。高等中学校と同様、決まった時間割を粛々とこなすことになります。

クラスの担任は美術大学出身の40代後半の男性で扮装講座の講座長を兼ねていました。
そもそも扮装学科の先生は2人しかいなく、講座長ともう一人40代前半の女性の先生がいて、先輩のクラスを担当していました。その女性の先生もまた美大出身でした。

2人とも映画大学に来て数年で、映画についての知識が少ない印象でした。そのためか、1年目の実技はひたすら美術でした。映画大学と美術大学の学生のためにモデルをする人々もいて、女性が多かったです。彼女たちにはとてもお世話になりました。

クラスの担任とは、私がクラスメイトの中で一番年上だったからか、世間話などもよくしていました。
実技の時間には私の作品をたくさん褒めてくれたり、成績もいつも高い点数をくれたため、クラスでほぼ1位を逃したことはありませんでした。
先生は男性だったので女子生徒とうまく行かない部分もあったらしく、なぜか私によく相談していました。

クラスメイトを簡単にご紹介します。
映画大学の撮影学科教授の娘が一人、演劇演出学科教授の孫が一人、平壌のドンチュ(成金)の娘が2人。もう1人は在日帰国者の娘ですが、何らかの理由で父親が国のために命を落としたため努力英雄となったため、優先して入学が決まったそうです。
そして、ただ運が良かっただけの唯一の地方出身である私。この6人でした。
私以外に演劇演出学科教授の孫も1年ムゴタ(留年)していて、その他はストレートで入学していました。

努力英雄とは、北朝鮮で経済や建設など社会における特定の分野で労働党のために偉勲を立てた人に授与する名誉称号だ。

中央日報より引用

実技以外の科目は俳優学科と扮装学科が一緒に授業を受けていました。俳優学科には私のように2年ムゴタした生徒が何人かいて、同年代なこともあり仲良くした思い出があります。

その中の1人にお父さんが通信局(通信に関するすべてを担当する機関)のトップの生徒がいて、北朝鮮の誰よりも早く携帯を所持していました。
私も急用があって家族と連絡を取る必要がある時や、ちょっとお母さんの声が聞きたくなった時などよくお世話になりました(私の家には固定電話がありました)。彼女の家に遊びに行ったり、誕生日パーティーにも招待されたりもしました。

もう1人、印象に残っている生徒がいます。彼女は大学2年生の時に中退して中国に出稼ぎに行きました。
当時は、なぜ大学を辞めて飲食店の店員になるのか理解できませんでした。今になって考えてみると、その子は誰よりも早くこの国は未来がないことに気づいたのかもしれません。彼女は今ごろ何をしているのか、とても気になります☺️

また、撮影学科は男性しかいないですが、ここも美術を強化していたため、一緒にスケッチをする機会などが多くありました。体育大学と半分ずつ使っている建物があると言いましたが、そこは演劇学部が使っていました。その前に金正日の大きな発言碑が立っていて、周囲はきれいに整備されていました。そこで撮影学科とよくスケッチをしたものです。

撮影学科を含む映画学部や演劇学部(脚本専門)などは、元軍人が7割を占め(北朝鮮は義務懲役)、現役の学生より7~10歳ほど上の人が多く、私たちを可愛がってくれました。
そして、撮影学科は特にお金持ちや幹部の息子が多かったため、仲良くなると美術に必要な絵の具や日本のトンボ鉛筆などをプレゼントでもらったこともありました。

大学の庭には屋台のようなものがあります。
そこにはパンやカベギー(揚げパンのようなもの)、餅などが販売されていました。休み時間はそこで買ったものをつまみながら、おしゃべりに夢中になってしまい、つい授業に遅れそうなったことが多々ありました😅

授業は、金正日が1970年代に書いた映画芸術論を学ぶことから始めます。

映画芸術論は
1.生活と文学
2.映画と演出
3.性格と俳優
4.映像と撮影
5.画面と美術
6.場面と音楽
7.芸術と創作
8.創作と指導
で構成されていて大学の全学部が共通で学びます。

この科目を担当する教授は、韓国で生まれ名門大学を卒業したあと、南北戦争時に北朝鮮に来た高齢の方でした。
ある日、彼は授業で外国芸術の批判を行う際に“アダムやイブ”について「資本主義国ではとんでもない嘘話を作る」的な発言をしました。授業が終わって私が教授に「アダムとイブとはなんですか?」と聞くと彼は少し戸惑いながら「知らない方が身のためだ」と言っていました。その時の教授の悲しそうな表情を今も鮮明に覚えています。

他には「主体(ジュチェ)哲学」という科目もあり、とても印象に残っています。その理由は、科目修了試験がとても難しく、クラスの全員が落第をしたからです。
私が「2年ムッゴタ(浪人)」したためクラスの中で一番年上だったこと、教授らと関係が良かったことから、クラスメイト全員に頼まれて主体哲学の教授に会いにいき、集めたお金で買った賄賂(タバコ2カートン)で、全員いい点数をもらうことに成功しました。
大学生活の中のいい思い出の一つです😅

大学の授業の一環として日本の映画を見る時間もあり、金日成が大好きだったと言われる「釣りバカ日誌」と「男はつらいよ」を大学のスクリーンで堂々と見ていました。
とても面白くて、映画が終わってからもみんなで真似しながら笑ったりしました🤣

1年生2学期あたりから2年生1学期まで国が行う大きな行事に参加しました。金日成広場を平壌の大学生らが歩き+踊りながら横切るもので、金正日が出る1号行事だったため練習の強度はとても強かったです。最初は午後の講義が終了してから1〜2時間練習しました。しかし、行事が行われる5〜6ヶ月は前は午後の講義を中断して練習、そして1〜2ヶ月前からは全ての講義を中断してアスファルト上で練習漬けになる日々。
行事当日は金正日を見れたからではなく、もう練習をしなくていいことが嬉しくて泣きながら踊った記憶があります😭
金正日の顔はあまりにも遠く小さ過ぎて見えなかった😛

1号行事が終わった頃の、2〜3年生あたりから実習に出ることが増えてきます。
以前も書いたように床屋さんでヘアカットを習ったり、朝鮮芸術映画撮影所や撮影街(映画撮影時に海外に行けないため、セットとして使うために作った街)などを回ったりもしました。

北朝鮮の映画はほぼ全て朝鮮芸術映画撮影所で撮影されます。
他には「4.25芸術映画撮影所」という場所もあり、こちらは軍と関連がある映画を撮影する場所です。そして、ドラマなどはテレビ局で撮影されます。
日本のように俳優やタレントの事務所は存在せず、ほぼ各撮影所の専属俳優となります。ロケ地を決めると俳優も決まってしまうという、融通が利かない仕組みといえるでしょう😅

さて、扮装学科=特殊メイクを専攻する学科であるということは前回の記事で説明しました。その特性上、扮装学科に所属する学生のメインストリームは映画の世界になります。
つまり、朝鮮芸術映画撮影所が就職先として第一候補に上がるのですが、私が学生として学んでいる間、この撮影所に関して良からぬ噂が平壌中を駆け巡ることになります。

北朝鮮では小学校からすべての人間は組織に属することになり、週一度、自分の生活を振り返り反省文を書き読み上げ、最後は同僚を1人批判して終わるという「生活総和」というものを行います。
1980年代における金正日の「芸術をする人々は資本主義の思想が入りやすくなる」という発言により、朝鮮芸術映画撮影所では2日に一度「生活総和」があり、日々の行動も事細かに報告することになるためとても辛い、という情報が流れたのです。

華やかで憧れの的だった映画撮影所は、誰も入りたがらない最悪な職場になり、先輩たちも少しでも楽な職場に行くために必死でした。
映画撮影所の人材確保も難しく、特に扮装に関わる人が少ないために、私のクラスの定員は先輩の代の倍になり、地方からの入学も許されたそうです。
しかし、実習先で耳にしたこの話により、私も絶対に朝鮮芸術映画撮影所には配属されたくないと思うようになりました。

いろいろな実習の締めくくりは、同じ学年のメンバーで短編映画を撮影する課題が出されました。
脚本、演出、撮影、演技、扮装、音楽などを全て学生だけで実施するという内容で、とてもやりがいがあって楽しい反面、大変なものでした。
教授たちが編成した20人1組のグループで、食料なども各自用意して平壌付近の山中に籠って撮影を行います。寒い時期だったこともあり、宿泊施設でずーっと震えていたこと、交代で担当するご飯作り(大量調理!)が大変だったことが思い出されます。

そしていよいよ、私が脱北を決意するきっかけとなる最初の事件が起こるのでした。
(さらにつづく…)

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