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6.コモンズ論に沿った劇場の運営について

  1.  2020年代の劇場の状況
     2022年現在、国内の公立劇場のほとんどは地方都市の中核施設として多目的な使い方を想定されている。多くの公立劇場が、異論があるかも知れないがリヒャルト・ワーグナーのバイロイト祝祭劇場のプロセニアムアーチ型で、オーケストラピットを舞台下に設けた構造を範に1,000名前後のキャパシティで設計、建築されている。特に首都圏から離れた地域の事情を考えると、このまま劇場を別の目的で利用する術を探していくよりも、劇場を別の角度からコロナ禍の社会にあった需要を満たしていくことのほうが、地域社会の活性化につながるのではないか。一方、ここ20年の実験的で新しい演劇・ダンス利用のトレンドはフリースペースで、いわゆる平土間の劇空間でクリエイトされるケースが多い。スペースのキャパシティは100から150名前後であり、国内の現状を考えるとその規模のスペースを、本来であれば2000年からの20年の間に、全国の公共劇場は施設改修などできる範囲で整備していく必要があった。特に地方の公共施設の場合は、地域のニーズに答えながらも、従来の視聴覚施設などを改修し、そうしたフリースペースでクリエイトされた首都圏の舞台作品を、積極的に地域に紹介し、その上で地域のアーティストがクリエイションし、地域から発信していく作品を作る余地を残していくべきであった。拠点形成事業でも、採択されるのは例えば海外のオペラ・バレエの引越公演だったり、その地域で長年続けられている吹奏楽のコンサートである。
     もちろん大型の、あるいは古くから地域に密接に活動してきた事業を助成していくことも必要だが、一方「いまの日本」をリアルに映し出す表現を続けている若い現代演劇、コンテンポラリーダンスの団体の事業を支援することは、今後のアート状況を考えていく上で、一層重要なのではないかと考える。地域に果たす劇場の役割をもう一度考え直す必要があるのではないだろうか。
     公的施設が「文化に関心のある人々が、主体的に管理運営を共有する場所」になるだろうか?一章の「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」で述べたとおり、地域の文化施設は連携をより強固にすすめるよう指針が示されている。本当に必要なのは、形式的な連携ではないのではないか、と内心では思いながらも他地域の施設、学校、文化団体、企業、助成団体など、実際のところは法律の制定前から公立施設は連携をすすめていた。優先受付や施設利用料金の減免というのがオーソドックスな協力ではあるが、例えばインターンシップなどの場として、企業の地域貢献のお手伝い、さまざまな文化団体とフェスティバルを率先して行うなど、公的施設のスタッフは裏方に徹しながらも、実務のフォローや、資金援助などを行なってきた。
     現在公共施設でおこなわれる連携では、いかに施設を利用する側と、利用される側が自らの負担を減らすようにするか?が話し合いの争点になることが多い。共通のガイドラインがないのと評価軸が定まっていないところがあって、公的施設は市区町村で定められた運営ルールから逸脱できない。2018年頃から連携に代わり、より自主的につながることに能動的になる「コモンズ」の言葉がさかんに流布されるようになった。社会の「共有地」を生み出すプロジェクトとして、シンポジウムでも盛んに「コモンズ」が、例えばアートコモンズのような(造語)タイトルに納まっている。おそらくは大学図書館などで流布されているラーニング・コモンズの影響があるのかも知れない。
     コモンズ理論とは日本人の考え方としては、例えば漁場を地域住民が乱獲を防ぐために、釣果を均等に分割するなど、住民が公平に長期的に地域の資源を活用することを目指した考え方である。入会地というのは例えば所有地の定かではない山中の、松茸のように希少な山菜が取れる場所を、地元の人が猟場を守るために付近の住民らが共同で管理するといった、きわめて伝統的で素朴な理論である。(ローカルコモンズとも呼ばれる)

2.コモンズについて、基礎となる知識
 コモンズは英語で「共有地」と表現されてきたが、今日ではニュアンスが広がり、広く様々な「共有資源」をさす。
 ストックホルムにある共同墓地「スコーグスシュルコーゴーデン」は、同地で最初の火葬を前提とした葬儀場として設計された。グレタ・ガルボ等国際的に活躍した有名人から、一般の市民まで、多くの遺体が安置されている森林墓地は建築物としてもきわめて高い評価を与えられている(1994年ユネスコの世界遺産に登録)ことと、北欧人にとって精神的な故郷といえる「森」へ還っていく人間の運命を、直感的に悟らせるような装置としての機能を実現している。1940年に竣工された建物であるにもかかわらず、まるで現代の環境問題を先取りするかのような意識の次元に、いち早く到達したことが現代社会で高く評価されている。
 一方人々が共同で利用する牧草地や漁場といったコモンズについて、研究をすすめたエリノア・オストロムは、ゲーム理論により資源経済学者と同じ土俵で彼らに論戦を試み、自主的な管理が有効な方法の一つであることを示した。 オストロムはコモンズを利用する個人が直面する集合行為の問題に取り組んだ政治学者で、1980年代にカリフォルニアの地下水盆の調査をおこなう過程で、その利用者たちが自主的にルールを制定し管理組織を設立していることに注目して、コモンズの利用者たちが自発的におこなう制度的取り決めについての理論を発展させることを志した。これは「コモンズの悲劇」を乗り越えるためには、コモンズの統制と管理は政府主導で行うか私有化するしか方法がないという既成概念に対する挑戦だった。
 オストロムはコモンズに関する豊富なケーススタディを体系化し蓄積した。また1988年にボン大学のラインハルト・ゼルテン教授が組織した「ゲーム理論と行動科学の研究グループ」に参加し、のちにゲーム理論を応用してコモンズの利害関係者間における意見の調整過程を解明した。
 オストロムは、コモンズの既成概念を表すモデルとして「コモンズの悲劇」「囚人のジレンマ」「集合行為の論理」の3つを挙げ、「コモンズの悲劇」と「囚人のジレンマ」についてゲーム理論を用いて説明した。「コモンズの悲劇」は、ギャレット・ハーディン が1968年に発表した論文の題であり、多くの個人が共同で希少資源を使う場合に想起される環境悪化の象徴となった。論文の中では、牛飼いは牛を売ることで利益を得ること、また牧草地に牛が増えることで過放牧になり不利益を被ることを仮定している。合理的な牛飼いたちは自分の利益のために牛を増やし続け、その結果いつしか牧草地の環境収容能力を超えてしまうと説いた。ここからコモンズを利用する人々は自分たちの資源を破壊する避けがたい過程にとらわれた無力な存在であるという見方が定着した。
 「囚人のジレンマ」とは、2人組の共犯者が別々の部屋で取り調べを受けている場合、「相手より先に自白したら無罪放免となる。しかし後で自白したら懲役10年の刑となる」ということはわかっている。また二人とも黙秘を続ければともに懲役1年になることに加え、二人とも自白すればともに懲役5年となることも理解している。囚人たちはともに黙秘を続ければ懲役1年で済むにもかかわらず、相手の抜け駆けを恐れるために、結局はともに自白してしまう。これは囚人たちが別々の部屋に入れられ話し合えないことが影響している。「コモンズの悲劇」はこの「囚人のジレンマ」と同じ構造を持つと理解されてきた。牛飼いたちは放牧地の現状や放牧される頭数が増えることによって、何が起こるかについての情報は持っていると仮定されている。しかし、彼らが互いに話し合うことはない。あるいは話し合って合意が守られるかわからない状況にあるとされる。この場合、彼らはともに協調することで互いに利益を得ることになるにもかかわらず、ともに裏切る、つまり過放牧するという行動をとる。
 「集合行為の論理」とはマンサー・オルソン が唱えたものである。「ある一集団内の個人の数が少数でない場合、あるいは共通の利益のために個人を行為させる強制もしくは他の特別の工夫がない場合、合理的で利己的個人はその共通のあるいは集団的利益の達成をめざして行為しない」と主張した。
 彼は集合行為の例として労働組合の会合への出席を挙げ、出席率が低いことについて「労働組合員は、会合に出席しようがしまいが、組合の成果から便益を受けることができるだろう」として、集団の構成員が自発的には共通利益を達成するために行為しないことを示した。
 オストロムは、これら3つのモデルの根幹にあるのは、「フリーライダー(ただ乗り)の問題」であると主張した。自分以外の誰かが提供した便益に預かることから排除されない場合、人は一緒に便益を作る努力をせずに、他人の努力にただ乗りする。ハーディンの牛飼いモデルは、他の牛飼いが頭数を制限し守っていた環境収容能力を自分のために利用しようとする行動が当てはまる。「ただ乗り」という誘惑は意思決定過程において支配的であり、それゆえに結果的に誰も望まない状況になってしまうという考え方である。
 さらに資源管理において「コモンズの悲劇」「集合行為の論理」「囚人のジレンマ」というモデルを用いる人々は、「利用者は資源を破壊する過程の中で抗うことの出来ない無力な個人である」というイメージを植え付けることを望んでいると指摘した。モデルそのままに「コモンズの悲劇」が現実に起きているとして、国家または市場が資源を統制すべきと資源経済学では言われてきたが、オストロムはこのような主張について以下のように批判を加えた。政府は⓵共同利用の牧草地を正確に判断でき②放牧する牛の頭数を明確に割り当て③牛飼いの行動を監視し④過放牧した牛飼いを確実に制裁する、というものである。これらを行うには多大な行政コストが必要となるが、政府統制提唱者は行政コストをほとんど考慮していないことにオストロムは疑問を投げかけた。
 「コモンズの悲劇」を回避するためには、資源の共同利用をやめ、所有権を設定し私有化して資源を統制すべきという私有化提唱者の主張に、オストロムは牧草などの生育(資源の状況)が不均一であるとき、利用者は共同で牧草地(資源システム)を利用することでリスクを分散していることを指摘した。また牧草地以外に、水産資源など変わりやすい資源の場合は所有権の設定が何を意味しているか不明確であると考えた。
 中央政府統制提唱者も私有化提唱者も、コモンズのジレンマの解決のための制度的変化は資源の利用者たちに外部から課さなければならないという支配的な定説を受け入れている、とオストロムは主張した。彼女は、自身の実態調査や文献調査から、成功しているコモンズの管理の多くが「公」か「民間」のどちらかではなく、双方の特性を併せ持つ「資源の利用者による自主創立組織」であると認識していた。そこで、こうした実態を踏まえ、コモンズの利用者自身が互いに協調戦略をとることを誓う、拘束力のある契約を結ぶゲームを提示した。ゲームのプレイヤーである牛飼いたちは、互いに非協力的であるが、それを乗り越えるために外部の者により確実に執行される契約を考える。
なおこの利用者による自主的な契約執行ゲーム(以下自主契約ゲームという)の契約の成立に先立ち、次のような交渉過程がある。まず牛飼いたちは、環境収容能力を維持しながら牧草地を共有する方法と合意を執行するための費用負担として、様々な戦略を議論する。牛飼いたち双方が合意しなければ契約は執行出来ない。また一方の牛飼いが不完全またはバイアスのかかった情報に基づいた契約を示したらもう一頭の牛飼いは合意しない。自主契約ゲームに類似した手段を通じたコモンズのジレンマの解決法は、唯一の方法ではなく一つの方法に過ぎないが、政策分析でも理論の分析でも無視されてきた方法であるとオストロムは指摘した。
まず自主契約ゲームのプレイヤーは自分自身の情報に基づいて契約内容を決める。そして契約成立後自発的な関心から相互監視し、違反を見つければ契約を執行するために報告をおこなう。その一方中央政府ゲームでは政府は独自に監視する者を雇わなければならずプリンシバルエージェント問題に直面する。
次に中央政府統制提唱者は政府の管理機関が正確な情報を持っており、第2図のように牛飼いたちのインセンティブを変えることができると仮定しているが、コモンズの環境収容能力や協調的な行動に導くための罰金を政府が正確に見積もるための十分な情報を得ることはむずかしい。
 さらに問題なのは、政策アナリストや官僚が相互の同意により自主ルールがある状況を全くルールがないとみなすことである。この事例として、オストロムはタイ、ネパールにおける森林国有化について言及している。国有化以前は村民が自主ルールにより森林の利用制限をしていた。国有化後新たな利用ルールが定められたが、国は監視員を十分に置かず、彼らの給与が低かったため村民が賄賂を渡して貴重な資源を探ることを見逃させ、森林の荒廃をすすめてしまった。
 成功した自主的な管理事例の一つとしてトルコのアラニア海での漁業者による漁場調整の事例を挙げた。この事例では、漁協が民間の調停者であり漁場調整の事例を挙げた。この事例では漁協が民間の調停者であり漁場利用のルールづくりに寄与した。またスペインバレンシアの灌漑施設の事例では水利組合が調停者の役割を果たしているだけでなく、水利用の監視者を雇用する、灌漑施設の補修作業の統括を行う、などの責任を担った。ゲーム理論は制度的な調整をうまく表す道具として評価し、実際にゲーム理論をつかってコモンズの統制に関する既成概念を模写したうえで、コモンズの利用者による自主的な統制という考え方を表した。その一方で、彼女はモデルでは多くの変数が固定されているため、現実の適用には限界があることを理解していた。またモデルとそのもととなった理論も混同することで、その妥当性はさらに限られると論じた。このような限界を理解せず政策アナリストたちは現実を既成概念のモデルに無理に押し込めようとしているとオストロムは批判し、彼らの主張する政策提言は想定された結果とは全く違う結果になる恐れがあると警告した。
自主的な資源統制についての理論が十分に発展し、社会に受け入れられるまで、主要な政策判断は「コモンズの利用者である個人は自ら組織化できず、外部権力により組織化される必要がある」という仮定に基づいて行われ続けるだろうとかんがえた。このような問題意識の下、彼女は極端に抽象化された既成概念のモデルを通してコモンズの統制のあり方を語るのではなく、自主的な統制事例の観察と分析により理論を構築することを目指した。
 彼女が集めた自主的なコモンズの統制の事例は、成功事例だけでなく失敗事例も含まれる。彼女はコモンズのジレンマから抜け出せる人たちがいる一方、自分たちの資源を破壊する罠にはまり続ける人たちがいるのはなぜか、という視点で成功事例と失敗事例を比較した。
 コモンズを利用する集団に内在する要素、たとえばコミュニケーション、信頼、共通の将来の見通しが醸成されてないのか。あるいは自治権の欠如、外部権力による妨害といった外部要因によるものなのか。このような観点から各事例における内生変数、外生変数を識別しコモンズの利用者による統制に必要な情報や交渉手続き、ルールの執行方法・体制制度について一定の法則を見出していった。
「一つの提言が正しければ、他はありえないという考え方はおかしい。一つの問題に一つの提言があるという代わりに、たくさんの様々な問題に対処する多くの解決法が存在する」とオストロムは主張した。この考え方がコモンズである文化資源をもとにした劇場の運営について議論するうえで必要ではないだろうか。
しかしながら、前提として「人工の資源」としての劇場はそれ自体を共有資源と言えるのか、という問題がある。高度に専門的な機能を宿す劇場の日々の管理維持には清掃、警備、空調管理が欠かせない。舞台のみならず、諸室や建物全体の定期的な点検というのもコンスタントに必要である。そのあたりは、年間で契約する専門性のある業者の仕事以外考えられない。
 
3.シアターコモンズについて
 近年、コモンズの理論を応用したプロジェクトはアート界でも参照とされている。目立った活動としては芸術公社の「シアターコモンズ」が挙げられる。プロジェクト概要は、HPに以下のようにまとめられている。
「シアターコモンズは、演劇の「共有知」を活用し、社会の「共有地」を生み出すプロジェクトです。日常生活や都市空間の中で「演劇をつかう」、すなわち演劇的な発想を活用することで、「来たるべき劇場/演劇」の形を提示することを目指しています。演劇的想像力によって、異質なものや複数の時間が交わり、日常を異化するような対話や発見をもたらす経験をアーティストとともに仕掛けていきます。
具体的には、演劇公演のみならず、レクチャー形式のパフォーマンス、創作プロセスを参加者と共有するワークショップ、異なる声が交錯する対話型イベントなどを集中的に実施します。
 シアターコモンズは、港区内に拠点をもつ国際文化機関、台湾文化センター、東京ドイツ文化センター、アンスティチュ・フランセ日本、オランダ大使館とNPO法人芸術公社が実行委員会を形成し、「港区文化プログラム連携事業」として港区内を中心に展開します。」
 シアターコモンズは、国内外の演劇、パフォーマンスアート、現代美術をセレクトした企画を開催し、「演劇の共有知」を活用し、社会の「共有地」を生み出すことをテーマに2022年2月で6回を開催している。2020年から2022年においては、コロナ禍によるパフォーミング・アーツをめぐる状況が変わっていくこと、社会の動向を見据えながら、VRやARを本格的に活用した作品を用意しながらの、新しい可能性に挑戦したり、リアルとリモートの両方で展開するなどし、開催している。
 一方、地域の公共施設は、指定管理者制度という、これまでの地方自治体による運営から、入札による指定管理者を選択し運営する制度に変わった。指定管理者制度とは、2003年9月に地方自治法が改正されて認められるようになった制度だ。公の施設の目的を効果的に達成するため必要があると認めるときは、条例の定めるところにより、法人その他の団体を指定して、その施設の管理を代行して行わせることができるというもの。法人その他の団体とは、株式会社などの民間営利事業者やNPO法人、その他の団体などのことで、指定を受ける者に制限はない。これにより指定管理期間が、短期間で、中長期的ヴィジョンが描けないなどの弊害が取り上げられてきた。そもそもが共有資源の『枯渇』を招くことを防ぐ意味合いではじまったとされるコモンズの考え方は、文化活動といったいささか抽象的な活動よりも、「駐車場の管理のよう」と揶揄された指定管理者制度の中にこそ、考えを取り入れた仕様書を用意することが、有効な方法ではないだろうか?
 ギャレット・ハーディンによる「コモンズの悲劇」が起こる条件には1.共有地がオープンアクセスである 2.共有地の資源が希少資源で枯渇すると尽くされてしまう とあるが、特定の管理者による管理は、「共有地」というミッションに向けた管理という管理されたアクセスであることと、ホールや、諸室、備品といった「希少な資源」は、適切に管理されるので悲劇は起こらない。一方でソフトとしての「事業」についての関わりになると、施設によって事情はあるが、幸か不幸か、国内の公共施設の大半が施設運営管理(職員の雇用、施設の修繕や備品の調達、清掃、空調etc)を優先しての、切り詰められた金額が算出されている。創造型と呼ばれる施設、条例で定められたごく僅かな施設が、事業をおこなうには到底十分とは言えない費用で細々と事業を行なっている現状を鑑みると、「不当兼売競争による市場の崩壊」が起こる余地はあまりないのかも知れない。時として民間を圧迫するような低廉な価格でアーティスト、スタッフと契約し事業をおこなうことの弊害は存在する。
 舞台管理に精通した首都圏の「企業」による複数地域の施設の指定管理というのは実際存在している。「公共施設の運営」が、あらかじめ潤沢ではない管理費の範囲で入札を行い、さらにはそのコストすらも中期的に捉えると先細りすることが見込まれる、現行の指定管理者制度では独占市場の形成という事態は起こらないのではないか。一方で公共施設の運営には、地域の利用に関わる財産権、同様に知的財産権の管理までもが求められるようになるかも知れない。
 公共施設のあり方は、地域コミュニティの構成員に限って利用できる「ローカルコモンズ」と捉えことができる。厳密な意味でのコモンズとは異なり、行政が所有する施設の便益をコミュニティの構成員(=市民)に分配する共同事業(=擬似コモンズ)であるとも言える。公共施設の運営については、地域の劇場でも700名以上の収納能力があり、オーケストラを招いてのコンサートや、劇団四季のミュージカル、歌舞伎公演をおこなうホールは、民間企業による管理運営を行なっているが、そうした大きめの公民館であれば、事業収入もある程度は見込まれるので、企業も指定管理料と合わせて管理運営をするメリットがある。公共施設は社会共通資本ではあるが、運営については自助的な側面で進められる余地があり、協助的なアプローチは経済的な側面をも必要とする。
 クリエイションの流通、利用促進とアーティストの著作権の尊重の両立を目指し、共有資源としてのコモンズの考え方を劇場に生かすとすれば、中小規模のホール、施設ではないかと考える。中小規模のホールは、指定管理に要する実務的な規模に見合ったものだし、残念ながらエンターテイメント作品の上演には機能が足りないところがある。チケットなどの事業収入が望めないと、企業の参加があまり見込まれない。指定管理者宛の仕様書も、地域の芸術推進、人材育成、団体との連携を記載していくこととなり、地域を起点に事業を進めているNPO団体、実行委員会が参入するハードルが高くなく、提案によっては入札で業務委託を指名されることもできる。
 


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