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8.地域の劇場にとって演劇が必要であるということ。


1 演劇のグループワークについて
 コモンズの考え方にある自主的な資源統制についての理論が十分に発展し、社会に受け入れられるまで、主要な政策判断は「コモンズの利用者である個人は自ら組織化できず、外部権力により組織化される必要がある」という仮定に則り、公立劇場のミッション・役割が理論化され、市民に受け入れられるようになるまでに何が必要なのか、を考えてみたい。
 個人の組織化、とはすこし異なるかもしれないが小さなコミュニティというのは、芸術文化の界隈でも続々と誕生しはじめている。例えば公演ものの場合は稽古から上演の過程で集団がまとまりを見せるに従いコミュニティ化する場合がある。その場合は公演を司るリーダーが引き続きコミュニティを引き継ぐ場合やリーダーを卒業したコミュニティがSNSなどを駆使して、ゆるく組織化していくものなど様々だ。
 以前女子高校生のみが多数出演する舞台の制作をしたことがあるが、彼女たちはお互いが顔見知りではないにもかかわらず、数か月後の上演日までには演出家をリーダーとした組織と、誰がリーダーというわけでもない女子高生のみのコミュニティと二通りの組織ができていた。もちろんうまく集団に馴染めない高校生もいるが、上演という全員が目指す目標を前には、そうしたコミュニティから全員が排除されることもなく、役の大小がそうしたところに持ち出されることもなく公平に運営されていた。こちらが懸念していた小グループに分かれての駆け引きなど発生することもなかった。
 スタッフ作業の役割分担や稽古の予定、代役、事務連絡などの情報の共有とフォローの仕組み、さらには作品全体の疑問点や意見の集約と表明(印象的だったのが、公演前舞台上での東日本大震災における被災者追悼セレモニーの要求等)が円滑におこなわれたことである。演劇の場合は様々なスタッフが各々の専門性を発揮しなければならないので、高度なコミュニケーションが要求されるが、わりと難なくすすめられた。
 組織化がたまたま成功したのかもしれないが共助的で、相互依存的な組織のありかたとして強く印象に残った。
2.舞台芸術における身体の重要性
 コロナ禍による外出制限やイベントの延期、中止、オンライン化の急速な推進は、日常生活におおきく影響を与えている。ある種危機的な社会情勢の急速な変化、危機のなかで、人々は不安に苛まれ、ウイルスの感染予防というよりも、むしろ生活様式の変化に伴うストレスが確実に私たちの身体をむしばみ続ける。
 SNSでは、政府や行政に向けた、刻々と変わる危機への対応が不甲斐ないというスレッドであふれている。SNSは思考された文章ではないという意見もあるが、リアルな現代社会の側面であり市民の承認欲求は無視はできない。街を歩くと一見普通の人である言質・行動や、感染拡大防止をうたう過剰ともいえるデモンストレーションや広告があふれている。訳も分からず用心すること、自由な行動を制限することを、不要不急の活動は控えることを社会から強く求められている。
 座標軸を失ったようにみえる社会の中で、まるで人々は寛容さを失い新たな優生的な考え。。。進化論と遺伝学を人間に当てはめ、劣勢と判断された人々や集団の排除。。。にとらわれているようだ。さらに経済に目を向けると、物価の上昇への懸念からか、株価の変動、乱発する財政出動による、特定な人々によるニューリッチ層が誕生している。高額な不動産が売れ続けるなど日々感染者数が増減する日常の中では、誰もが危機的な状況の終着点を見いだせないにもかかわらず、上手に資産運用をおこなう人々もいる。モラル、指標が失われた中で、自らが進むべき道筋を考えていくことには困難が伴う。
 柔軟さと楽観性を失った社会で、本格的な愛情や幸福を求めるのにはいささか無理がある。まずは生活に精神的な余裕が持てるよう、なにか「ささいな楽しみ」を見つけていくことで、すこしストレスを軽くしていく、というのがいいのではと思う。観劇においてはその物語を、登場人物に同化し、追体験していくことで、実人生とは別の人生を感じ考えていくことができる。同時に一緒に観劇している観客同士が物語を通じて話し合うことができる。もう一つの人生を考える心の余裕が生まれるのはある種の救済ともいえるのではないだろうか。人は自らの身体感覚・・・「身体」そのものからは逃れることができない。怪我や病気になってしまうと動きは鈍り、平時であれば何の苦もなくできることも実行できなくなるばかりか、気力すら失われてしまう。身体の不調はメンタルにも影響を与える。一方で想像力は、身体の不調にも反し自由にとびまわることができる。想像力は身体から離れて私たちを現実世界から解放する。孤独という概念は自己の内面のみで図ることはできない。個として自立することと、相互依存の関係をどう考えていくべきか。孤独を認識することと、孤独であると他者から認識される、この違いは小さくないのではないか。
 物語を中心におこなわれる交流が疑似体験の窓口となることで、その交流によって、人は孤独を忘れることができる。現実に孤独であることが解消されるわけではないので、残念ながら一時の慰みに過ぎないが、ストレスは軽減され自己を客観的に見つめることができる。客観的に自己を見つめなおすことは自分の立ち位置、現在地を認識、分析し、その原因と改善策(別の場所で生活することや、出会いを探す)を考えていくことにつながる。孤独な魂は救われないかもしれないが、自己認識と自己分析により、内面を善き方向に変化させていくことは可能ではないか。

3.日本の舞台芸術の特殊性
 専門性を有する施設がレクチャーやシンポジウムという、教育普及の色合いのもの、レパートリーのディレクターや、レジデンスシアターの設立まで、地域にとって施設の存立性を高め、海外公演の実績や、地域課題に対する一つの解決に向けた「きっかけ」として素晴らしい活動を行ったことは事実である。だが惜しむらくはここ数十年の公立施設の育成事業の影響で、文化の潮流が起こる、あるいは地域を代表するアーティストが生まれる、あるいは地域が文化都市であるという評判などの実績が「ない」。
施設の建設から、運営にかけて莫大な税金を投入しているが、費用対効果に見合った活動を行っていると言える施設は国内に存在しない。たとえば女優フェイ・ダナウエイを輩出したANTC あるいは、数多くのダンサー、演出家が所属するヨーロッパの公共劇場のような。
 日本の舞台芸術の伝統は、我が国独自の歴史がある。その特徴の一つにジャンルを超えた継承がほとんどなされない点・・・断絶がある。かつて能楽・歌舞伎・新劇・アングラ演劇など、ジャンルを超える者に対する「制裁」が存在した。そこには次世代に流派を継承していくという強い使命と、芸能の価値を貶められたくはないという気概と、時の宰相、素封家からの手厚い庇護のもと、興業を成立せざるを得ないプロデューサー的視点が入り混じった事情があったのではないかと思われる。
 継承の断絶があり、異なるジャンルが個々に存在する日本の舞台芸術で、公的施設との向き合い方というのも、他国の事例を参考し、模倣することなく独自にすすめていかざるを得ない。明治以前、貴族や武士といった上流階級の手厚い支援を受けて発展してきた舞台芸術が、「享受する市民」側の平均的な見方を前提とする公的支援の形に代わり、文化政策の論議が十分になされない中に、公共施設が公的支援をおこなうことが求められており、指針がグレーな中、舞台芸術の特性を俯瞰的、客観的に見て地域の劇場、公共施設を運営することは至難の技である。
 コモンズの行動学が今日的であることは十分承知しているが、公共施設に求められる観光、まちづくり、産業振興との有機的な連携をすることでの成果を示すのが、特にいくつかの課題が未消化の中で進めている舞台芸術のジャンルにおいて、施設がそれらの連携をおこなうことが、文化の価値が高めることにつながるのだろうか?
4.今後の舞台公演のありかた
これからの公的施設における事業展開を考えていくことのひとつには、舞台芸術の持つ力をフルに活用していくことも視野に入れつつ、地域間格差を少なくしていくこともあげられるのではないか。もちろん地域によって課題はまちまちであり、そこを解消していくことは、地域に住む市民にとって切実な問題の一つである。
 劇場機能をもつ国内の公的施設は管理整備にかかるコストと比し、劇場の事業費に費やす費用は乏しい。おおくの公的施設は多目的ホールがメインで稽古場、音楽堂などの設備がない。何故ならそうした施設の設置目的には「鑑賞・交流の施設である」ことは明記されているが、稽古や、舞台美術の制作など実際に舞台をクリエイトする場であるとは、記されていない。これはある意味致し方ないところもある。何故なら最近建設される施設の多くは、残念ながら地域のデマンドを高める新たな拠点、ということで建設されることはなく、施設の老朽化のために閉館となってしまった公会堂などの施設を引き継ぐことを目的とするのが主である。なかにはコスト削減を目的に図書館機能を付属させて「交流施設」と名乗る施設も建設される。知の集積場としての役割を考えるとそうした統合は、メリットも多いが、劇場だけでは市民サービスが足りないと感じさせるような、社会の偏見があるように感じてしまう。
一方コロナ禍で大きな制限を受けながら、演劇・ダンスの公演は完全に休止することはない。映像による配信や、オンラインのフォーラムも活況だが、従来の演劇・ダンス公演に加えてそのような新たなアプローチが出来てくることで、より作品を深く理解することができるようになった。公演のアーカイブということが議論されることが多いが、図書館の情報収集力、収蔵力を生かした新たな舞台芸術の知の共有、といったものがひろく社会に受け入れられていくことができれば、よりおおくの演劇・ダンスファンを獲得することにつながる。

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