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9.劇場がアーティストを雇用するということはどういうことだろう?


 1.公共施設の自治
公的施設は先進的で、オペラなどに特化した高い専門性が要求される施設では、そのテクニカルな機材や特殊機能への施設維持管理に莫大な費用がかかる。スタッフも一般的な施設に求められるレベル以上の知識、経験が要求される。
 一方、難易度が高く、専門知識が要求される仕事であるにもかかわらず、国家資格のように社会的に信用度が高い資格は、ライブアートの世界には存在しない。あくまで業務経験と人柄など見て劇場が雇用するのが一般的である。そのことによる弊害は、契約書の取り交わしが存在しないことの契約不履行と、採用において実業務を処理できる能力の見極めがないことだ。例えば企画制作の遂行能力や、契約事務や、地域の文化団体やアーティストとの円滑な調整能力の高低を判断材料として雇用ができているか確証がない。
 1990年代に公共施設の多くが地方自治体に建設されて、現在は大規模な改修工事期間にあたる「市民ホール」「文化会館」という名前の公共施設の維持管理のことを考えると、そこでアーティストがクリエイションの場として占有し使用することは、自治体はあまり前向きになれないのではないか、と推察する。特定のアーティストに優先的に貸し出すことは、市民へ公平性を担保していないことになってしまいかねず、施設としては踏み込むことを躊躇してしまう。またたとえ拠り所としての条例の改定の議論が起こった場合は、施設職員の勤務状況などへの議論は出てきてしまう。そうなると「文化の創造」の必要性が数値化できないところもあり、現実的に優先貸出についてのハードルは高い。
 しかしながらコモンズの考えに沿っての「市民自治」の発想は、演劇・ダンスに関していうならば、さきの商店街の練習を鑑みるに、一般的には利用条件は高くない。今ある集会場にひと手間加えることで、稽古場としての役割を十分発揮できる。すばやく小道具・衣装をしまうことの出来る倉庫、安全性が担保できる緩衝材の床面(リノリュームなど)、全身を映す鏡があれば、まずは稽古場の機能を担保できる。空調機能や、ミーティング用備品があれば申し分ない。
 コロナ禍とその収束後の社会で、公共劇場はどのように運営されるべきなのか。悲劇に見舞われ消耗しきった後におこる、経済の恐慌のなかで、歳出が極端に削られるかもしれない。「文化を守る」などの論調が、必ずしも好意的に見られないような風潮が今以上に出てくる可能性がある。文化政策が「文化」の必要性を十分説明、周知することがなく、単なる観光や産業との連携ということにあまりに頼りすぎているきらいがあり、コロナ禍のいささか不寛容さが感じられる社会が、これまで以上に文化の保護をおこなえるのかどうか、疑問を感じている。
 2.地域の劇場における連携の可能性について
演劇が持つ、優れたコミュニケーション能力を引き伸ばす力と、ファシリテーターを育成する力や、ダンスが持つ身体コミュニケーション能力を引き伸ばす力などを社会に還元し、その有用なところを、たとえば教育現場に早急に活用していくことが、今の地域社会で求められている。小中学校ではダンスが必修科目となったが、実際の指導の現場では、「従来までの、教則に則った、体操=ダンスの枠内では、ダンスの持つ身体のクリティカルな能力について教えることが困難だ」などの苦労が多いと聞くが、教師はそうした指導上の変化についても、自らの指導経験の変更にも、気持ちの上では非常に前向きに取り組んでいるといえる。
 ただしそのような新しい取り組みをおこなっても、小中学校は学習環境の変化や、コロナ禍のなかでオンライン事業の可能性、少子化など、時代の変化に対応しながら、従来までの「教育要綱」以外の業務に忙殺されているところがあり、例えば業務委託を考える場合の、直接アーティストを吟味し調整し、雇用する知識と経験が直ちに可能であるとは言えない。従来まで教育の世界は、閉塞的であり中央集権的であるとも議論されてきており、外部との接点が著しく制限されてきた経緯もある。
 地域の劇場のほとんどは、今は新たに事業を増やすことが財政的にも運営的にも困難なのではないだろうか?今後コロナウイルスの感染拡大が収束した後も、深手を負った経済の立て直しの時期に、一部の文化政策者が提言するような、「実演芸術のクリエイションの力で、社会を変えていく」というのは残念ながら、特に我が国では全く求められていないのではないか? ニュースに取り上げられるのは、芸術文化というよりも芸能的な話題がメインであり、例えば映画の受賞のニュース(それすらも芸能人の活躍に内包されたものに過ぎない)、あるいは著名な芸術家の訃報以外はほぼないに等しい。
   地域の劇場の所期指定管理費の支出については、自治体から恒常的な施設の管理運営に充当するように求められているのではないか? ほとんど事業費が用意されていない劇場でも「教育普及」の一環で市民に向けたダンスワークショップ・演劇ワークショップは過去開催しているのではないだろうか?小中学校などと、地域の劇場が連携するのには、こうした、ワークショップの経験を生かしながら劇場が積極的に協力していくことはできないだろうか?さらに踏み込んで、地域住民のアーティストとともに、劇場が地域の文化を発信することにつなげられないだろうか?
3.日本のリージョナルシアターの誕生
 兵庫県尼崎市にある尼崎青少年創造劇場=ピッコロシアターでは、1980年代からピッコロ演劇学校を開校している。ピッコロ演劇学校は、日本の公立高校で初めて演劇科が設置された兵庫県立宝塚北高等学校の指導に関わってきた劇作家秋浜悟史(大阪芸術大学教授で、劇団新感線の育ての親でもある)を代表に迎え、地域の特性を生かした、高い水準の演劇教育をおこなってきた。演劇学校で培ったノウハウをもとに、1994年に国内初の県立劇団(兵庫県立ピッコロ劇団)が誕生するにあたり秋浜が劇団代表になった。(演出家である鈴木忠志が芸術監督となった水戸芸術館のACMがそれに先駆けていたともいえるが、1991年の発足当時はプロデューサーシステムに近かった。また静岡舞台芸術センター付属劇団は1995年に発足)ピッコロ劇団は、1995年の阪神・淡路大震災で劇団員の多くが罹災した。その際ゲネプロ直前の第二回本公演を中止し、震災支援活動・救済措置として演劇ワークショップを、劇団員自らが被災地でおこなった経緯がある。残念ながらまとまった資料はあまりないが、まだ誕生前のNPOに代わる組織からの支援活動などままならず、さらには昨今問題提起されている、被災者のPTSDなどの後遺症について取り上げられることがなかったころ、公共劇場の付属劇団の使命に駆られ、きわめて先駆的な活動をしたことの意味は大きい。兵庫県立ピッコロ劇団は2022年現在も定期的な公演・学校でのワークショップを行い、劇団員の人数も30名以上いることを考えると県立宝塚北高~ピッコロシアター~ピッコロ演劇学校という演劇人育成の理想的な環境の中で、相互に補完しあえる機能が取れているのが、大きな特徴のひとつといえる。おそらくは「公立高校、公共劇場、演劇学校、付属劇団」という各々の組織が共存しながら地域に開かれているという、阪神間という首都圏の地区ほど演劇人口が多いわけではないのだが、大阪・京都・神戸が距離的に近く、文化の発信地としてはメリットが多いということが、おそらくは設立した当初そこまで予想していなかったかもしれないが、今日まで環境が維持されてきた理由の一つではないか。あえて残念な点としては、大ホールのキャパシティが小振りであること(400席)と、民間のタレント事務所などスタッフ、キャストの外部活動を発信し、積極的に支える組織が枠組みに入っていないこと(人材育成後のフォローアップ機能がないことが、結果として表立った人材輩出に繋がらなかった)大学との連携がやや弱い(大阪芸術大学以外の関西の大学機関との連携があまりない)ことがあげられる。
 国内では公立劇場の付属劇団については1990年代に僅かなもりあがりを見せた。ドイツやフランスなど公共劇場の「芸術監督」の設置の議論と軌を一にしていたのかと考えるが、それ以前からの「アングラでもなく、新劇でも古典芸能でもない」地域初の質の高い演劇・ミュージカルが、草の根的に広がりを見せていたことと(ほとんど資料はなく、関係者からの聞き取りでしかないが)、公共劇場の演劇・ダンス部門に芸術監督が雇用をされはじめ話題になった。2022年にはそのような首都圏の芸術監督の交代が重なり、複数の芸術監督を通じての公共劇場の連携のスタイルも始まろうとしている。
 これまでの民間の劇団、劇場はその集団の代表者による最終決定者がいて、その結果スタッフ・キャストをある定められた方向で導くことで興行的基盤を確保し、かつ芸術的な成果を収めてきた。演劇・ダンスは集団創作における芸術的な統率者に依存してきた。「公平性」ということとは逆行するところもあるが、現実的には統率者の仕事が作品の評価や、劇場の評判も左右することとなる。ファシリテーターという集団に寄り添いながら方向性を探していく進行役やドラマトゥルグという、様々な戯曲やそれらの相互関係性、スタイルを分類し、検討することで、作品の制作にかかるさまざまな「小さな声」をひろって、演劇ダンスの創作の場に生かす現在では、専門家をまとめあげて、いっそう洗練された作品を作ることができ、作品の意図や必然性を広く社会に説明できる能力を持つ芸術監督のもと、劇場や劇団の運営の指針を示しえるグループとして、劇場が創造集団を持つ、というのはごく自然な流れだと思う。
 4.演劇の環境整備
海外の事例がそのまま日本国内に当てはまるとは考えられない。例えば海外のカンパニーのほとんどが、附属劇場を所有する中での運営を行っているところ、国内の劇団・ダンスグループは特定の上演場所や稽古場を持っていないグループがほとんどだ。理由としては定期興行をすることの、負担を団体で賄うことができないこと、場所の維持管理にかかるコストが、助成金や入場料金で回収する収入に見合わないという事情と、公演レパートリーは常に新作が求められ、旧作でレパートリーを組むことがあまりないという、日本独自の事情でいったん公演が終了すると、公演のために用意した大道具、小道具、衣装など処分するので収納倉庫を必要としないといった事情がある。前提として来場者数が出演者の知人などをメインとしたごく限られた観客というところも依然としてある。
 アーカイブで取り沙汰されることはないが、70年代まで小劇場運動と並行して商業演劇が非常に魅力的な上演をおこなっていた。仕事の都合で当時のV T Rを観たときには、例えば歌舞伎以外の「坂東玉三郎公演」のアンサンブルの巧みさと、力強い舞台の力に唖然としたものだ。商業劇場の観客層も変化し徐々に勢いをなくして、かつての新劇の担い手たちも、「良心の演劇」を市民に届けるというミッションが、うまく伝わらなくなっていくのと同時に、公共劇場の作品制作の一部に取り込まれていく過程で完全に失速してしまった。アートを取り巻く助成制度が整備されてくるに従い、創造型の公共劇場が、受賞歴のある中堅の劇団やダンスグループと公演を行うことが増えた。むしろそこのみにフォーカスされてしまい、それ以外の演劇環境は年々先細っている可能性がある。古典芸能とも言えない、明治期以降の芸能・・・新劇、プロレタリア演劇以外にも新作歌舞伎、新派、新国劇、歌劇、レビューといったものの評価と検証はなされないままに、衰退し、忘却されているようにみえる。そのことによる文化の損失は、将来的に小さくない。
5.レジデンスカンパニー
 国内における代表的な公共ホールの付属劇団・集団としては、まず新潟市の公共劇場附属舞踊団であるNoismがあげられる。新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあは、他の舞台芸術と比べ、Noismを中軸として、ダンスの関係者に限らない国内外での幅広い人的交流が生みやすい点にある。定期的におこなっている公開講座(これは演出家の鈴木忠志の影響も考えられる)、外部の振付家を招聘しての作品の上演や、所属ダンサーが、退団後ヨーロッパのダンスカンパニーへ移籍するなど、身体動作であるダンスの特性を最大限活かした国際的な広がりを持つ。Noismではネットワーク構築が良質な作品を生むための土壌となっている。
 2007年鈴木忠志芸術監督から引き継いだ、演出家の宮城聡率いるSPACは、HP上での動画配信にて、直接静岡県下の中高校生に劇場の魅力を訴えるなど、次世代の文化を担う人材の育成に重点をおいている。こうした人材育成が長期的には劇場機能の公共性を市民に浸透させていくことにつながる。2014年アヴィニヨン演劇祭ではSPACの『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』が、日本の現代演劇作品としては実に20年ぶりに公式プログラムとして招聘され、メイン会場のひとつ「ブルボン石切場」で上演された。壮大かつ創意に富んだ演出や舞台装置は注目を集め、約1,000席の観客席は連日満席、終演後はスタンディングオベーションが起こった。
「ふじのくに⇄せかい演劇祭」では、国内外から一流のアーティスト集団の招待公演を行い、これまでの国内の演劇祭をバージョンアップしている。SPACは市民にすぐれた鑑賞の機会のみならず、劇場で市民講座を開催し、演劇の持つ「知」を、生活の中で応用する提案を、劇場から発信している。劇場を閉じたハコではなく、開かれた親しみやすいパブリックスペースへ変換する、ということこそが現芸術監督の指針であると考える。
 2020年のコロナ禍においてもSPACはいち早く、所属俳優が電話から、戯曲のリーディングをおこなう「でんわ演劇」を導入するなど、雇用者である俳優の雇用を守りながら、演劇を利用した新たな事業展開をおこなった。多くの劇場・劇団・団体が上演中止に追い込まれる中で、こうした取り組みは新鮮で貴重なものと映った。
 日本の国公立文化施設において、レジデント・カンパニーを持ち、実演者を雇用しているところは、前述のSPAC、新潟市民芸術文化会館を拠点に活動する舞踊団 Noism をはじめごく限られた例しかない。
 SPACとNoism双方のレジデント・カンパニーに共通することは、公共劇場が一流の才能を全国から結集し、その地域にアーティストを定住させて作品創造を行っていることである。芸術監督の宮城聡、金森穣それぞれ他の地域の出身で、また多くの所属俳優、ダンサーも他の地域出身者である。地域固有の文化の担い手=地域出身者という固定観念を越えて、一流の才能を全国から結集し、地域にアーティストを定住させて作品創造を行っていることである。その仕組みこそが、地域固有の芸術発信の理想的なスタイルとして、地域の舞台芸術を支えている。何故なら一流のアーティスト集団が地域の劇場に所属することで、その地域の市民がアーティストを身近に感じられるからである。アーティストによって、劇場が市民にとって親しみやすいものと変わる。地域の公共劇場は付属劇団(レジデント・カンパニー)、アーティストがいることで、劇場はより開かれた劇場として、多くの市民に質の高い芸術文化を与えられるが、しかしながら公共劇場がアーティスト集団を抱えることのデメリットは、その多額の運営資金にある。 昨今の厳しい経済状況下で、どの自治体もアーティスト集団を雇用する余裕はない。現在、全国で数少ないレジデント・カンパニーであるが、レジデント・カンパニー同士のネットワーク基盤に関しては現在構築中で、これからの課題となっている。これまで述べてきたように、公共劇場が所属アーティスト集団を有するには、いくつか課題がいまだ残っている。

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