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姉さん、私は、

 姉の結婚式は六月に行われた。続く長雨が嘘のように、その日は雲一つなく晴れ、美しい祝福の言葉が碧落へ響きわたった。

 白いドレスを纏った姉は、春風にゆったりと流れる綿雲のような穏やかさで、明るく不明瞭な幸せへ向かうカーペットの上を歩いた。胸元や肩にしつらえたレースは、朝露を飾った蜘蛛の巣のように儚く、白い教会の中、天窓から降り注ぐ真昼の陽光にひらめいていた。
 壇上へ進む姉は、目眩がするほど綺麗だった。これほどまでに、美しさが形を表すことなどあるだろうかと涙した。立ち振る舞い、眼差し、空気、降り注ぐ祝いの言葉、姉に関わる全てがきらめき、尊い姿をしていた。
 私の視界は何度も涙で滲んだが、目を閉じることはできなかった。気の狂いそうな目の前の景色を夢物語にしないために、自分の心を粉々に叩きのめし、その痛みを脳髄に刻みつけるために、決して目を閉じてはならないのだった。姉とその夫となる人、二人の歩む幸せを眼に焼きつけようと決意して私はここへ来たのだ。
 私の奸譎なふるまいは、姉の神聖な笑顔の前では存在することも許されないだろう。姉を囲む輪の中に足を踏みいれるなぞ、到底できるはずがなかった。ただ遠くから、彼女らを祝福する音を両手で打ち鳴らし続けた。帰路につく頃、手のひらは誰かを張り倒したかのように熱を持ち、痛んだ。

 姉は私より五つ年上で、背は私より小さい。とてもよくできた人で、私が幼い頃は友人と遊ぶ間も惜しんで面倒を見てくれた。私のためにご飯を作り、部屋を整頓し、絵本を読んだ。小さな世界しか知らなかった幼い私は、それが世の当然と思い込み、やがて姉にべったりと依存した妹ができあがった。
 しばらくして私が思春期に突入した時も、親よりも姉のお節介に反抗し、逆らい、逆上した。それでも彼女は常に、一歩身を引いた場所から私を見守り続けてくれていた。どうしようもなくなった時、私が頼りにするのはやはり姉だった。
 歳を重ねるごとにその優しさが、親が子に向けるようなものではなく、人間が下等生物や小さな動植物に向けるような憐憫と慈しみの混ざったものだということに気づいたが、彼女の愛し方は私にとって心地よかった。彼女は、自らと私が全くの別の人間であることを理解していたからだ。私が大切にしていることが彼女にとってそうではなくても、彼女はその思いや行いを尊重してくれた。
 彼女の声は、浮つきがちな私の意識をふっと落ち着かせ、臆病を勇気に変えてくれる。おはようと微笑んでくれるのが嬉しかった。毎日顔が見られるだけでよかった。そういった生活がこの先も続くんだと本気で思っていた。
 姉の婚約者を名乗る男が、我が家の敷居を跨いだとき、そうではないのだと思い知った。

 姉の夫となる人、彼は真面目そうな面立ちの人だ。実際そうなのだろう。初めて姉と一緒にうちへ来たときも、自分の中にある偽りない思いを口にするため、何度も言葉を詰まらせていた人だ。姉が彼を見詰める瞳に迷いはなかったし、彼の目は姉との遠い未来まで見据えていた。何より姉の選んだ人だから、妙な下心のあるような為人であるはずがなかった。
 それだけに私を苦しめた。彼は善い人。私の陶酔だけではとても嫌悪できる人間じゃない。彼らを祝福すべきだと心が言う。でも私の頭の奥は、彼を侮蔑する言葉を吐く。私は姉が喜ぶと知っていたから、数学だって頑張れた。昔膝を痛めた姉が、自分のことのように喜んでくれるから、好きじゃないバスケも続けた。生まれてからずっと一緒にいたのに、つい数年前知り合っただけのお前が、私の姉の人生を縛るのか? 私の姉は、あの人のためにご飯を作って、あの男のために部屋を掃除し、あいつのために股をひらくのか。
 考えるだけでもおぞましい言葉が、喉に詰まった。私は自分の頬を強く殴った。
 
 行き止まりの心だ。もう何処へも行けなくなってしまった。私の帰る家に姉はいないのに、紫陽花が汚く枯れるたびに、六月の隅で惨めに思い出す。
 この思いが報われることはない。これは救われてはいけない思いなのだ。とても重く硬く、歩くたびに骨が軋んでいる。けれど仕方がないのだろう。これは重いまま、私が背負わなくてはならない。
 雨が止んだ六月の空気に太陽が差し、窓辺からぬるい風が流れこんできた。今年もまた夏の匂いとともに、殺しきれなかった感情がとぐろを巻いている。

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