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静かな緑の言葉

 研究所の一画には、小さな温室があった。
 手入れをしていた用務員の方が亡くなるまで、そこへ足を踏み入れたことはなかった僕がなぜ、今更になってその冷たい硝子戸を開くことにしたのか。後任の職員が決まるまでの間、僕が温室の手入れを任されることになったからだ。
 秋の終わりが見えてきた頃だった。
 日毎に冷えていく朝の大気をかき分け、研究所の建物の前を通り過ぎる。所属する研究室へ顔を出す前に温室へ向かうのは、前任の用務員の方を見習ってのことだ。彼はいつも、職員が出勤してくる前に、研究所内の植物に水やりをしていた。
 棟と棟のあいだの路地を抜ける。春を待つ躑躅の生垣、花を散らした金木犀の並木の奥、ひっそりと佇む硝子張りの温室が見えてくる。円柱に、伏せたお椀を乗せたような形の、本当に小さな温室だ。
内側の結露で曇った扉を開けば、すぐそばに植わる迷迭香の匂いが鼻をかすめる。湿度が高い。初めてここの空気を肌に感じた時から、この濡れそぼった青さがどうにも好きになれなかった。それまで外気にさらされ冴えていた頭が、温室の中の空気を吸いこんだ途端に、穏やかに麻痺するように気怠くなる。あくびを噛み殺した。
訪れる者のほとんどない温室だが、その中で育つ植物はいつ誰かが訪ねてきても良いように、常に手入れされていた。温室で慎ましい葉を伸ばす彼らを初めて見たのは、用務員の方が亡くなって三日後のことだったが、その必要性を感じさせないくらいには手入れが行き届いていた。
じょうろに水を張り、鉢のひとつひとつ水をやる。温室は季節のせいだろう、全体的に深緑に沈んでいた。扉の近くにあるいくつかの迷迭香。その隣には、土から平行脈の葉が顔を出した鉢。そのまた隣は、土だけの鉢が二つ。植物に明るくない僕は、地中に埋まった種が何なのか、そもそも種が眠っているのか、いまだに分からずにいる。掘り起こしていいものかも分からない。その何の気なしに起こした行為が、春を待つ(待っているのが春なのかも分からないが)種に致命的な損傷を与えるのではないかと思うと、土に触れることができなかった。
可能性を秘めたそれらの土にも水をやり、次は植物らのあいだでもひときわ鮮やかな箒草だ。寒さに息を潜めるこの温室で、箒草だけが鮮烈に紅葉している。一番奥のこじんまりとした花壇に白い薔薇もあるのだが、その慎ましい華やかさよりもこちらの猩々緋は強烈に視線を奪った。あまりの強烈さに、家で埃をかぶったままだった植物図鑑を引っ張り出したぐらいだ。一年草の箒草は、秋になるとこうやって葉を紅葉させ、冬には枯れる。枯れたものはその名の通り、箒としても利用できるようなのだ。
これぐらい分かりやすく赤くなる方が見ていて面白い、と思うのは我ながら単純すぎて苦笑してしまう。

水やりが終わると研究室へ向かうが、日が高くなり気温も上がった午前九時ごろに、僕は再び温室へ向かう。温室に風を通すための天窓を、開けに行くのだ。温室の二か所に備え付けられた壊れそうなレバーですべての天窓を開くことができるのだが、錆びついているのか回すとかなり重い上に、肌が泡立つような不快な音がする。
けれど天窓が開いて、細やかな風が温室に滑りこんで、降るように植物の葉をなでていくその瞬間の静けさには、筆舌に尽くしがたいものがあった。風に音などないことを身に染みて理解する瞬間だった。葉がそよぎ、しかしその沈黙は虚しいものではなく、むしろある種の雄弁さを孕んでいるような気さえする。この沈黙は植物の言葉なのだろうか。そう思いながら、解放された温室を少しの間、後にする。

いつも食堂の隅で済ましていた食事を、温室の傍にあるベンチで取り始めたのは、手入れを任されてから十日ほどが過ぎたあたりだ。朝晩の冷えこみには首を短くしてしまうが、昼間はまだ随分温かい。風のない晴れた日に、簡単な昼食を食べながら空の高いところにある巻層雲を目で追うのは、食堂の薄汚れた生成りの壁を前に食事するよりずっと気分が安らかだった。
半ば押し付けられたような温室の世話だったが、習慣にしてしまえば苦ではなかった。それどころかこうやって、研究の合間を縫っては温室の様子を見に来ている自分に少し驚く。相変わらず植物に関する知識はほとんどなく、湿った草のにおいも好きになったわけではないが、温室と自分の間にある距離に、居心地の良さを感じていた。知らないことは魅力的であると同時に壁を生むが、それは僕が温室を嫌いにならないための隔たりだった。後任がやってくるまでの短い期間、簡単な管理、自分にできる分だけの世話、無責任ともとれる離れた場所から様子を伺う。その距離を好んで僕は、温室へ足を運んでいたのだと思う。
ちょうどそんな考えが頭を巡りだした頃だったと記憶している。
温室の植物がやけに伸び始めたのは。

良く言えばのびのびと、悪く言えば雑然とした風に育ちだした温室の彼らは、まるで冬へ向かう大気をその細い茎いっぱいに、無理に吸いこもうとしているようだった。用務員の方が亡くなった当初、綺麗に切りそろえられていた箒草はいまや、赤い葉を不規則に揺らめかせ、炎のように上へ向かう。迷迭香も、白薔薇も、いまだ花のない草ですら奇妙に体をくねらせながら天窓を目指す。
元気ならば何も問題はない。彼らの成長は早い、そう思っていた。けれどこの苦しさが太陽に透けるような伸び方は何なのだろう。日当たりは悪くないはずなのに、なぜこうも揃いに揃って上を目指しているのだろう。
二週間を過ぎる頃には、温室の外から見てもその異常な伸びしろが分かるほどになっていた。昼食を取るためにベンチへ座れば、硝子戸の向こうにいっそう深緑を満たしていく植物の様子が目につく。温室とは言え日毎に気温は落ちていくはずだった。こんな無理な伸び方をしては、体に堪えるのではないか。
午後三時、天窓を閉めるために向かった温室で、不安定な高さに伸びた迷迭香に足を引っかけて倒してしまった。辺りに迷迭香の葉の香りが広がる。申し訳ない気持ちで零れてしまった土を鉢に戻し、錆びた二つのレバーで天窓を完全に締め切った。
天窓を閉めた温室には日光だけが降り注ぎ、また違った沈黙が硝子で隔たったここを支配した。風を失ったここは時間を証明する手立てがなく息苦しい。自らもまたその静寂に絡めとられて、動けなくなりそうな、気の遠くなりそうな細やかすぎる世界だ。僕は逃げるように温室を後にした。

三週間が過ぎても、後任の用務員は決まらなかった。気温が下がるごとに温室は、硝子のコップに深い森が注がれていくようにして、内に住む植物を成長させていく。昼も夜も関係なく彼らは天窓を、目指し続けていた。枯れ始めた箒草、蕾をつけ始めた名前のない葉、しんしんと深く深くまだ伸びていく。なぜ。みんながみんな揃いに揃って、首を長くして……もしかして、待っているのだろうか。
季節はゆっくり冬の底へ落ちていく。じょうろから溢れた水滴が土へ染み、氷の融ける音に似た音をたてた。噎せ返る湿度はやはり思考に靄をかける。
温室の中には彼らの言葉が溶けている。彼らの言葉は静かすぎて、僕には到底理解することはかなわない。逆もまたそうなのだろう。彼らの地中で交わす言葉は、どんな波長で空気を揺らすのだろうか。分からなかった。
けれど僕はずっと忘れていたことがある。前任の用務員の方は、不慮の事故で亡くなった。それをずっと、告げていなかった。
朝の水やりが終わり、温室の扉の前に立った僕は彼らに向かって小さく報告した。
「あの人は、とても遠い所へ行ってしまった。もう、戻ってくることはないんだ。」

 その日から、温室の植物は伸びることをやめた。箒草は正しく枯れた。そしてその日から数日と立たないうちに、後任の用務員の方が着任され、温室の管理も滞りなく引き継がれることとなった。もうあの息の詰まる草の香りに、若干の辟易を覚える必要もなくなったのだ。
本当にたまにあの温室の傍を通るとき、結露で曇る硝子の向こうが以前より色彩の豊かになったのを目にして、どうか健やかにと胸の中だけで呟く。

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