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狂人の淘汰

 助けを求める声に恐る恐る開いた社会科準備室には二人の人影が、嵐を待つ赤い空と紫紺の雲を背に向かい合っていた。
 一人は今しがた膝から崩れ、喉から血を溢れさせながら冷たい床に倒れ伏した。一人は脂っぽい血のこびりついたカッターナイフを左手に、突如入室した私を振り返った。息も絶え絶えに床と仲良くしているのは古典文学講師の山川先生。そして薄闇にも映える緑の黒髪から私を見つめるのは隣の組のマドンナ柳さん。
 柳さんの手首に残された指跡や、粗暴に乱された制服を見れば、彼女が先程まで強姦されていたであろうことは想像に難くなく、潤んだ瞳と足の間に落ちた白い体液が、事の凄惨さを物語っていた。けれど柳さんの顔は茫然としているものの怒りや絶望には捕らわれておらず、むしろ上気した頬は清々しさすら浮かべているように見えた。
 彼女の失われた純潔に、私は何を言うことができただろう。柳さんは私の表情を見るなり、恍惚とした瞳に幾分か我を取り戻した。その両手で、私の動揺をなだめるような仕草をして、罰が悪そうに言い訳する時のように詰まり詰まり喋りだした。
「どうか、そんな顔をしないで。わたし、昔から人が傷つけられるのを見るのが好きで……だからこれは、防衛本能を欲求を満たすための理由にしただけで……わたし今とても満たされているの。乱暴されたことは本当に気にしてないの。だから、あなたのことは知らないけれど、そんな悲しそうな顔をしないで。わたしは大丈夫」
 柳さんは手にしていたカッターナイフを床に放ると、ぎこちない笑顔を作って見せた。嵐による大雨と暴風が懸念され、人払いされた不気味な静けさの校舎を、赤い夕空がぼんやりと照らしていた。耳障りな山川先生の呼吸を鎮めたあとで、私たちは風の音を追い、屋上へ出た。
 嵐の夜を待ちきれないいなさが、柳さんの豊かな髪を弄んだ。風に煽られながら危なっかしく歩く彼女の内腿は、血と精液が混ざったもので艶かしく光っていた。たまらず私の差し出した手巾を、柳さんは礼をいいながら受けとる。風上に立つ柳さんの声は、私に向かってか細く、しかし確実に届いた。

  誰かと未来を歩みたいと思うことも欲。欠陥品のわたしが、誰かを傷つけたいことも欲。同じ欲なのに、遠い未来へ繋ぐことのできないものは、どうしてこんなに酷い扱いを受けるのかな。
  痛みはちゃんと感じるし、痛いことがよくないことなのは分かっている。でもずっと考えるのが止まらない。
  わたしが未来に残せるのは誰かにつける傷だけだから、もっと深くもっと奥へって、狂った生殖本能が叫ぶの、もっと傷を残せって。

 風の唸る声が酷くなる。私は柳さんに近づいて告白した。

  私は、あなたのことが好きだから、あなたが死ぬと一生ものの傷を負って、未来へ持っていってあげるけど、どう?

 雨を報せる、湿気を含んだ重たい風だ。柳さんの瞳は前夜の月のように静かに凪いでいる。彼女のから伸ばされた両手に、私の両手が重なる。
「それじゃあ、よろしく頼もうかな。ありがとう」
 一度力強く握られた手のひらは、次の瞬きで風を掴んでいた。屋上の柵を越えた柳さんに、私はもうかける言葉はない。
 風が強くて、彼女が地面に砕ける音は聞こえなかった。

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