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亡国の騎士

 私たちは人間でした。
 何もせずとも腹は減り、命を貰うことでしか生き長らえることができずに、他者の不幸に顔を歪めることでしか同調する術を持たず、届かない星を仰いではどん底から笑いました。
 私は随分前から生きることが億劫になっていて、一度何もかも止めてみようと試みました。たくさん体を痛め付けてしまいました。けれどどんなに痛め付けても、私の体は私の意思に反して生きようとします。終いに私は、あまりにも健気なその姿に心苦しくなり、こうして今日まで生きている次第です。どうやら私の体は、私のものではないようでした。

 私があなたに出会ったのは、ちょうど躑躅の鮮やかな季節でしたね。どうせ何にも望まれず、擦りきれていく命です。ならばせめて誰かの盾となり、傍目からだけでも華々しく、美しくして死にたいと思いました。美しいものは好きでした。高潔な精神に憧れました。だから私は迷いなく、あなたの姿勢に憧憬しました。
 祖国を守るため集められた騎士たちに向かって、激励の声を挙げたあなたの伸びやかな背。汚れのない声音。重く大きな頭飾りの下に隠されているであろう、あなたの前を睨み付ける鋭い眼光は私を奮い起たせました。そのとき私は、生きる希望をようやく見出だしたのです。生きる意味を、あなたに依存させたと言っても過言ではないかもしれません。両側からあなたを堅牢に守る近衛兵は、私の目指す場所となりました。この体は、あなたを守るためにあったのです。
 私は脇目もふらず訓練に打ち込みました。脆弱だった体は、殴られるたび強くなりました。女だからと蔑む奴は、口で虚を突き打ち負かしました。人を見下す奴等のもて余す心ほど、弄くりやすいものはありません。
 私がようやく近衛兵の座に着いたとき、あなたは一人の御子様を授かっておりました。あなたによく似たのでしょう、切れ長の目尻が印象に強い子です。この国の礎とも呼ぶべき重要な役目を、将来背負わざるを得ない憐れな子でした。あなたもそう思っていたのではないですか。だからあなたは、生まれる我が子にたった一つ、大切なものを渡さなかった。その子は順当に歳を重ね、あなたの役目を引き継ぎ、あなたは亡くなりました。
 そして、あなたの後を継いだあの子の腹に、次の世を担うはずの子は宿りませんでした。

 あなたが世を去った後で、私は少し落胆していました。どれほど強くなったところで私が守れるのはあなたの外側。内側には干渉できないのです。もとより体の弱かったあなたのことです。いつかその日が来ることを覚悟していなかったわけではありません、けれどその喪失感はいつだって想像を上回るのです。あなたから役目を引き継いだあの子は、まるで命まで引き継いだかのように見えました。いやむしろ、奪ったとすら……。
 その子が今の私の主様でございます。あなたから大事な役目を後継したその日から、重く荘厳な頭飾りをつけられ、誰にも素顔をさらすことなく生きておられます。さぞ、美しくご成長なられたことでしょう。我々にそれを知るすべはありませんが。
 
 あなたはこの国の崩壊を望んだのでしょう。だから血を分けた子に、次の子を宿す力を与えなかった。血で世襲するあなた達の役目は、他の人間には務められない。私たちはこの国の在り方を考えねばなりません。もう何十年もの間、平和の下で潰れて澱んだこの国に無理を強いてでも新しい水流を、流さねばならぬ時が来たようです。
 あなたの子は、荒波に揉まれることになるでしょう。無論私も同じ棘の道を歩むつもりでございます。例え命を奪ったのだとしても、あの子はあなたが残した唯一の絆です。あの細い後姿を見るたびに、あなたが背負って見えたものなど、氷山の一角に過ぎなかったのだと思わされます。どうかあの憐れな子をお守りください。たった一人分の生きる力しか、あなたに与えられなかった、夜の下に繋がれたままの幼い少女。

 私たちは人間です。腹は減り、それぞれの美しさに寛容になれず、争います。誰かを蹴落として笑い、夜は眠らねばなりません。愛おしさも憎しみも感ぜずとも、恐怖を体は覚えています。あなたは死を恐れましたか。死してなお安寧を許されず、呪いの手中に落ちることに抗いもせず、最後の犠牲としてあの子を生み落とした。
 あの子はあなたを恨まないでしょう。終わりを美しいという子です。あやうく、儚い魂の子です。万の文字だけを追い、深窓から遠く空を仰ぐだけの瞳はあまりにも、夜を映しすぎている。私はあの子に、城壁の外に広がる景色を見てもらいたいのです。終わりを美しいというのです、つまり全てを肯定されているのです。あの子は、この世の全部を美しいと思うでしょう。それらを見せてあげたいのです。折れそうに立つあの姿勢を見て、私の憐憫から生まれた希望は、あなたへの憧憬も異存をも超えました。
 だからこんな澱みで、あの子を溺れさせるわけにはまいりません。あなたの願いに、あの子を巻き込むわけにはいかないのです。この国に食い殺されるには、純粋すぎるでしょう。初めてあなたに逆らいましたね。どうかご寛恕のほどを願いたいものです。
 さあもう時間が無くなってきました。あなたの遺骨を、ここへ置いてゆくことを許してください。まあでも、もうここにあなたの魂はおられないでしょう。
 さようなら。あの子の呪いがほどけた先に、あなたの冥福があらんことを。

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