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認識とはやわやわで良いのかもしれない。頑なになりそうな時のためのメモ

今回はチャコウェブラジオ番外編でお話したことの補足。

普遍的だと思っていた障害者に対する認識も、時代や場所や環境によって変わるものだなというお話です。


耳が聞こえなくても障害者扱いされない島

チャコウェブラジオでもご紹介したアメリカマサチューセッツ州マーサズ・ヴィンヤード島のお話は私に衝撃をもたらしました。

この島では300年以上にわたり、先天性の聴覚障害を持つ人が生まれる比率が高いという特徴がありました。

島の聴覚障害の人たちは障害者として区別されながら暮らしていたわけではありません。
島の共通言語として英語のほかに手話が存在するような状態で、島の人たちは皆手話を使って暮らしていたそうです。

そうすると、島出は耳が聞こえないことは暮らしのハンデになっておらず、仕事も付き合いも普通になされていたのです。

みんなが手話を使えると、聴覚障害は些細な特徴に

「〇〇さんについて話を聞かせてください」

「あの人は漁がうまくてね、片腕なのによくやるもんだよ」

「その人は聾だったのではありませんか?」

「ん?ああ、そうだったな」

著者が島民にインタビューすると、こんな感じで思い出話をしていました。

これ、なかなかすごいことではないでしょうか。

耳が聞こえるかどうかは、最初に思いつく特徴の一つとされそうなイメージがあります。
しかし、マーサズ・ヴィンヤード島では特に重視されないほど特徴としては目立たないものが「聴覚障害」だったようです。
「漁がうまい」「おしゃべり」の次に「聾者」かどうかがくる。

手話が共通言語の一つになれば、さしたる障害と捉えられることもなかったという好例でしょう。

日本ではあまり馴染みがありませんが、複数の言語を共通言語に持っている国では、自由に使い分けて暮らしますよね。

いや、日本国内でも、方言と使い分けることがあるのと似たようなものでしょうか。
地方において、方言を話すこと自体は別に特徴として取り上げられることはありません。

環境・社会によって障害の認識も変わる

もう一つポッドキャストで話したのが「視力が悪い人」の認識です。

コテンラジオ障害の歴史の導入部分でヤンヤンさんが話していたのはこんな感じのことでした。

近視の人は(弱視の方もおられますが)、眼鏡や手術によって、良く見えない不便さを解決することができますよね。
しかし、技術によって不便さを解決できない時代は「見えない状態」が固定されてしまいます。


この話も、障害という認識は、技術など解消できると障害とはとらえられることがない例として強く印象に残りました。

ヤンヤンさんの話は車いすの話に移り、今は車いすを利用する方は世間的に障害者という認識である話で、私たちが「何を障害」と捉えているのか考え直すきっかけをくれています。

「障害=固定した人たち」のイメージが崩れたエピソードです。

私たちが固定的に見ているものは、それほど固定化されていないのかも

上記2つの話は、私が衝撃を受けた障害に関する認識についてです。

もしかしたら他のことでも固定化されているものと思い込んでいるものが、「実はそうでもなかった」ということはたくさんあるのかなと思うようになりました。

たとえば、首を縦に傾ける動きは『肯定』と捉えるのが日本。
一方、インドのあたりで『肯定』を表すのは横に傾けます。

認識の違いって面白いですよね。

何が言いたいのかというと、私たちは固定観念をもっとやわやわの柔軟にしてよさそうだということと、技術が進んだり、人々の認識が変わったりすれば、障害は障害ではなくなるということに気付いた、ということです。

書き留めておきたかったので、noteにしておきます。

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