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妊娠、ワタシとボセイ、決闘のゴングが鳴る。


親友、というのはこっぱずかしいのだけど、
一人っ子の私には、姉妹みたいな存在がいる。

彼女とは新卒から4年間、一緒に暮らしていた。
「私の性格を悪くした」と多方からご指摘をいただく新卒の荒波にもみくちゃにされて、
時々沈みかけるお互いを助け合いながら、
ふたりでなんとか生きぬいた、戦友。

彼女は私よりずっと社交的で、外の世界といつも繋がっていて、私に言わせれば「スーパーオープン」なタフレディで、
私とは全然違う性格だけど、心が向く方向みたいなものは似ていると思う。

感度が似たアンテナを携えているもんで、
気づいたら一緒にビリビリ心動かされてた、なんてことも多かった。

映画をきっかけに「愛は計測可能か」という答えのない議論に白熱したり、
ドラマみたいな人間関係のもつれに取り込まれて、傷つけあったり、
おばあちゃんになっても覚えてるだろう人生のアレコレをシェアしてきた。
もちろん、インフルエンザもいつもシェアした。

そんな彼女に、ちょっと前から言いたかったけど中々言い出せなかったことを告白した。


「これから、あなたに見えているものが、私には見えなくなると思う。
私に見えてるものも、あなたには見えにくくなると思う。
お互いの道はこれから少し離れていくけど、
それでも時々は、あなたが見てる世界を教えてほしい。
私の世界も見にきてほしい。」


そしたら彼女は、赤くなった目で私を見て、
「寂しいね」ってひとこと言った。

銀座の喧騒もお構いなしに、泣けてしまった。



私は妊娠していた。

クレヨンしんちゃんよろしく「おかえりー!」と独特の挨拶で帰宅するおもしろくて愛おしい相方と結婚できて、自然の流れで子供を授かった。

妊娠をするために、沢山の時間とお金をかけて準備する方々がいる中、自然の流れに恵まれたことは、本当にありがたい幸運としか言えない。

子供を授かれたことは、本当に嬉しい。

白黒のモニター越しに、バクバクとすごい速さで脈をうつ心臓をみたとき、お股全開のあられもない体制にもお構いなしでグズグズに泣けるくらい、
命の奇跡に感謝している。

オタマジャクシみたいな形の命を見て、
「かわいいですねえ」と顔をほころばせる助産師さんの一言に「かわい・・くはないぞ(まだ)」と正直思ったけど、
このよくわからない生き物が、もうすでに愛おしくてたまらない。

でも。

でも、嬉しくて仕方ない一方で、
困惑の気持ちが、胸のうちでモクモク渦巻いていて、
ときどき晴れ晴れした喜びを、覆い隠してしまうことがある。

こんなことを言ったら、奇跡みたいな幸運なんだ、身の程を知れ!と喝が飛んできそうだ。
そもそも妊娠、結婚、性別など、
あらゆる多様性に寛容ではないこの国で
いろんな状況に置かれた方々がいる中、
この困惑する気持ちを外に表出すること自体、間違っているように感じる。


でも、ごめんなさい、ワタシの中にはいるんです。


自分が、自分でなくなってしまうような困惑が。
自分という「個」が、子供という存在に飲み込まれてしまうような、心もとなさが。

「妊娠」という二文字には、
これまで私がせっせと切り開いてきた道が急に塞がれて、代わりに不気味な鳴き声がこだまする(育児という)ジャングルへ、線路の切り替えよろしく急に方向転換してひとり流されていくかのような、そんな抗えない変化への不安を含んでいると思う。

「出産のタイミングで後悔をしない為に、いまを精一杯やりきりたい」
身の回りの女性からそんな言葉を聞くことも多いが、特にこれまで妊娠をしたことのない多くの人にとって「妊娠」とは
それまでの自分の人生から、「個人」が引き剥がされて、「女性性(母性)」だけが残される、そんな朧げにも恐ろしい感覚があるんじゃなかろうか。
(少なくとも私は、そんな変化に怯えている。)


友人たちはこれからも、時間とお金、知恵と労力を自分自身の進化のために使って、前進してゆく。
現状に留まることへの適切な焦りと、
未来の自分への期待を動力に、
今よりももっと洗練されて、鍛えられて、感性豊かな存在に。

かたや、私は。

ただでさえ未完・欠陥・発展途上のバブバブな仕上がりなので、あらゆる”ジブンエネルギー”を自分に向けることで、ケツを叩き叩き、なんとか前へ進んできたというのに。

向こう10年くらい(もっとだろうか)、
持てるエネルギーのほとんどを
子供と、子供がいる生活を回すことに注ぐことになるだろう。

子供がいたって、やりたいことをやってる人は沢山いる。
ママさん起業家だっているじゃない!と言われたらグウの音も出ないが、
私はまだ、人生のパーパス、もとい人生かけて求めたいゴールの存在自体、絶賛探し中なのである。
ダイヤが欲しいのか、ルビーが欲しいのか、それすらも分からず、まだ航海に出れてすらいない。
目の前に広がる希望と冒険の大海原を前に、
永遠に準備体操を繰り返している。

足踏みだけでは、今の状態から進化することも、進むこともできない。
膨らんだお腹で重くなった身体はそのうち足踏みすらやめて、ワタシはここに立ち尽くしたまま、
跡形もなく朽ち果ててしまうんじゃなかろうか。
(その灰の中から遂に、ボセイ本能とやらが立ち上がる…のだろうか。)

せめて”宝の地図”を見つけてから、ワタシの人生第二幕に入りたかった。
航海の指針さえ見つけられていたら、
いつかまた、今ワタシがいる所に”戻って来られる”気がするのに。




だからこそ、祝日の銀座、お酒も飲めなかった友人の結婚式の帰り道、
彼女が「寂しいね」と言ってくれたとき、実はすごく嬉しかった。

自分の中にくすぶっていた困惑の気持ちを、
初めて誰かと、ちゃんと分かち合った気がした。
祝福の嵐と困惑のモヤモヤで前が見えない中、
本音のボールがぽんっと胸に飛びこんできたみたいだった。

これまでの私と、これからの私は、少しずつ離れていくのだろう。
彼女の言葉でいよいよ、私の線路と彼女の線路が切り離されたことを実感した。
私はついに、彼女には見えない世界に向かって走り出してしまったんだ。

でも、その変化を「寂しい」と感じても良いのだと思えた。

変わることからは、もう逃げられない。
それは仕方のないこと。
もう、やってみるっきゃない。



これまで女性として二十ウン年か生きてきたわけだが、思えば「準備が整った」瞬間などなかったのかも、とも思う。

小学生ぐらいの頃、友達の身体がちょっとずつ「私と違うもの」になっていくのをみて「不気味だ、私はこのままでいい」と強く思った。
願い虚しく、キテレツな下着を着けざるをえなくなった時は、理由もなく居心地悪くて、恥ずかしかった。

”毎月のアイツ” が初めて訪れた時だって、
「これで私は一人前!」なんて思うはずもなく、
急に知らぬ一面を突きつけてきた自分の身体(と周りの謎のお祝いムード)にたじろいだ。

いまの私にできることは、
体の変化に、心が追いつくのを、気長に待つことなのかもしれない。
理性で整理しようとしたところで、
ワタシとボセイの闘いに決着はつかないのだろう。

加えて、今ヤキモキと考えを巡らせているこの私は、明日にはポッと消えてなくなっているかもしれない。

妊娠中の女性の脳は、暴力的なまでのホルモンシャワーでジャブジャブになるらしい。
いつワタシがKO負けして、ボセイがこの身体を乗っ取るか、わかったもんじゃないのだ。


だから、いまの私が感じている事を、ここに書き記しておきたいと思った。
嬉しさも困惑も不安も全部、
美化も修飾もない、妊娠のリアルだと感じたから。


こんなクサクサした恨み節の文章、
いつか、酒のつまみに笑い飛ばしてやる。

それまでワタシ、頑張ってくれよ。


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