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リマで世界を食べる✴︎遊学日記week22@Nauta&Lima, Perú

追いつかないくらい情報が入ってきている。
大都市リマでの1週間。

9/9 イタリアっぽい、日本っぽい

○緑はバジルとほうれん草
ナウタ最終日。ハンモック船は諦めて夕方の飛行機を取った。
午前中、市場に行ってお買い物をして、一緒に料理をした(ほぼ見てただけだけど)。作ったのは tallarín verde / 緑の麺。

炒めたニンニク、玉ねぎ、ほうれん草をミキサーにかけ、バジル、チーズ、塩、牛乳を加えていく。パスタはローリエを入れて茹でて香りをつける。茹で上がったら混ぜて完成。付け合わせは唐辛子漬け鶏肉グリル。

ジェノベーゼパスタと似てるなと思ったら、イタリア系移民の影響によって生まれたペルー料理だった。1800年代後半にペルーにやってきたイタリア系の移民の多くはリマを居住地として選び、祖国で食べていたものをリマでも再現しようと試行錯誤した結果、tallarín verde が誕生した。

○いらっしゃいのお味噌汁
飛行機であっという間にリマに到着。空港を出て、今にも雨が降り出しそうな空模様を見てリマに来たことを実感する。
暗くなってきていたのと、空港からの距離もそこそこあったのでUberを呼ぶ。ベネズエラ出身の運転手さんにリマで食べるべきものをいろいろ教えていただいた。移民の歴史が豊富なペルー、現在は中米からの移民が仕事を求めて都市部にやってきている。

アルパカ?

ナウタで知り合った、住宅やコミュニティの研究をする建築系の教授のお宅に1週間お邪魔する。ルームシェアをしているうちの一部屋、使わせていただく。

ウェルカムドリンクはお味噌汁。
実は教授と一緒に住んでいるのが、日系2世の方で、彼女から教わったお味噌汁を振る舞ってくれた。生姜がガツンと効いているお味噌汁で、肌寒いリマに合う仕上げだった。

スプーンなの

彼が住むのは日系の様々な施設が集まっているエリアで、文化会館、病院、協会、レストラン、いろいろ揃っている。

リマ初日の夕飯は日本食。驚いたのは、巻き寿司以外にも豊富にメニューがあること。湯豆腐、オムライス、刺身。もちろん巻き寿司もあるし、こっちならではってことで頼むんだけど。

湯豆腐
オムライス!!
日系料理:タコとアボカドに唐辛子ソース

ユカモチをお持ち帰りしてみんなで食べた。

ユカモチは昔から日系の方々が作り続けている食べ物。ペルーに着いた当初は餅米がなかった。餅を作るとなったときに使われたのがユカ/yuca、キャッサバだ。食べてみるとお餅とプリンのハーフ。長い歴史を持つユカモチは、日系ペルー人にとっての懐かしい味なのだろうか。

9/10 教科書で見た景色

意を決して外に出る。というのも、リマの交通機関が難しすぎるのだ。行きたい場所を伝え、解説をしてもらい、交通カードを貸していただいた。とりあえずリマのコンビニ TAMBO に向かってチャージをする。
Google MapMoovit で検索すれば基本的に使いこなせるはず。わからないときは近くにいる人に聞く。

・バス①ー4桁のバス
micro/ミクロ:日本の一般的な大きさのバス
combi/コンビ :ミニバンくらいの大きさのバス
距離で料金が変わって、0.5~2.5ソルまで。運賃係のお兄さんに行き先を伝えて現金を渡す。代わりに切符みたいなのがもらえる(もらえないときもある)。
バスの車体に4桁の番号と行き先が書いてあるので、頑張って自分の乗るものを見つけて手を上げて止める。自分が降りるときは「止めてください」と言って止める。
GoogleMapMoovitで乗るバスを検索する。

リマの交通手段事情

・バス②ー3桁のバス
日本の一般的な大きさのバス。赤色が特徴。
2ソルだった気がする。メトロポリターノと同じカードで乗れる。
バスの車体に3桁の番号と電子で行き先が書いてあるので、見つけて止める。降りるときはボタン押して止める。

リマの交通手段事情

・metropolitano/メトロポリターノ
リマ市内を南北に走るバス。専用レールを走るので、渋滞知らず。
A,B,Cのレールがある。どこまで行っても2.5ソル。交通カードが必要。
駅があるので駅から乗って、駅で降りる。

リマの交通手段事情

・タクシー
流しのタクシーは自分で交渉して乗る。乗ったことない。
わたしは空港からお世話になる家までは Uber を使った。基本安心、今まで Uber を使うなと言われたのはカンクンのみ。
知り合いは多分、Cabify を使っていた。多分ちょっと安いんだと思う。

リマの交通手段事情

・歩く
日が暮れる前はかなりどこでも歩ける印象。海沿いの舗装された道はランニングする人がかなりいる。日が暮れてからは場所を選べば徒歩でも移動できる。

リマの交通手段事情

Mercado No2 Surquillo
→Mercado Artesanal
→Mercado No1 Surquillo
→Barranco
→Parque de Amor/Miraflores
→Mercado Municipal San Isidro

最初の行き帰り以外はずーっと歩いた、32525歩。

本日の行動スケジュール

○mercado/市場 巡り
計4つの市場を回った。それぞれ全く雰囲気が違くてびっくり。

①Mercado No2 Surquillo
大きめのよくあるタイプの市場。野菜、果物、お菓子/ドライフルーツ、食堂、ジュース屋、雑貨、服直し屋。通り別で並んでいる。

②Mercado Artesanal
観光客向けの民芸品市場。ペルー定番のお土産が並んでいるけど、ちょっと高いと思う。ぱーって通っただけ。

③Mercado No1 Surquillo
だいぶ小さめの市場。野菜、果物、小さい食堂、ジュース屋。
外にテントが並んでいて、チーズ、オリーブ、ドライフード、野菜、果物などが売られている。雰囲気はさながらヨーロッパの青空市。

ここの八百屋さんでは日本の野菜が売られていた。細いキュウリ、小さめのナス、白菜。びっくりしていたらお店の方が「サトイモ、ネギ、豆富もあるよ」と。日本語で野菜の名前が飛んできて、びっくり。豚汁を作ることに決めた。
日曜日はお饅頭も売るらしい。後から調べると周辺に日系人が多く住んでいるので、日本の野菜が普通に並んでいるみたい。

近くの食堂に入った。ペルーに着いて、初めての一人外食。それだけでもお腹いっぱいになりそうな、どんぶりに入ったパスタスープ。メインはいくつかある中から選ぶ。聞いたことのない caucau/カウカウ を選んだ。甘い紅茶もセットで12ソル(500円弱)。安い、おいしい。ペルーは yape というQRコード決済が流通していて、小さな食堂でもみんなそろってQRコードを読み取ってお会計を済ませていた。

どでかい丼ぶりにもりもり

④Mercado Municipal San Isidro
欧米人に人気なエリアにある市場。かっこいい建物、天井が高くて、きれい。
店舗自体は少ないが、野菜、果物、肉、魚、ドライフルーツ、一通り揃う。若干高い。日本のきゅうりが pepino japones という名前で売られていた。豚汁用の豚肉を買った。薄切りはないのでかたまりを買って、後から自分で切ろうと思う。

イケイケな外観
じゃがいもたくさん

○海岸沿い
Barranco/バランコ、Miraflores/ミラフローレス、どちらも高級エリア。バランコはアーティストの街。ミラフローレスは大型ショッピングセンターがある優雅な街。
というわけで、バランコ内部を歩いて、海岸に出てからミラフローレスまで海岸沿いをぐーっと歩いていく。

海岸沿いに出て見えた景色は地理の教科書で見た、海岸からぐっと崖のようにあがったところに広がるリマの街。気候区分のページだったか、南米のページだったか。

ホテルやマンションがオーシャンビューを求めて並んでいる。その景色の下に広がるのは、もう使われていない荒れ果てたレストランたち。いつから廃れてしまったのだろうか。

高くそびえ建つビルの隙間をパラグライダーが飛んでいる。砂ではなく石の海岸では、水の冷たさと波の高さからか海水浴をする人はいない。代わりにサーファーが波に向かって走っていく。

○Combo Okinawa
ナウタから大学でのプレゼンをするために、ラジオ局の代表がやってきた。
彼のいらっしゃいご飯は、マンションの敷地内にあるニッケイレストラン。ニッケイレストランは日本食屋さんとは少し違う。メニューがペルー料理とニッケイ料理でわかれているのだ。
みんなでシェアできるCombo Okinawaを頼んだ。他にもCombo Nikkei, Combo Tusan(中華系)がある。出てきた沖縄そばをアマゾンの caldo de mono/サルスープに似ているといって美味しそうに食べていた。

真ん中のは焼き鳥だそうです

沖縄そば
餃子
とんかつ
ゴーヤチャンプル
大根の酢漬け
オレンジジュース
+焼き鳥
+アボカド豆腐サラダ

combo okinawa +α

9/11 点景のチョリータ

大学でのプレゼンについていかせていただいた。
PUCP(Pontifical Universidad Católica del Perú)の建築学部で行われていた数日にわたってのプレゼン/ワークショップの一部。
流石の建築学部、建物がなんだかかっこいい。ただコンクリート壁打ちなので寒い。

たまたまランドスケープの課題のプレゼンボードが廊下にずらっと展示されていた。対象地がペルー国内なこともあってか、点景がいかにもペルーらしい。チョリータがいたるところにいるのだ。

ボリビアやペルーで、先住民の血を引く人々のうち、女性を指す言葉。あるいはその民族衣装を身にまとった女性を指す言葉。
長い髪を二つに三つ編みして帽子を被り、ひだが重なるスカートを履く。
靴は黒いサンダル。寒い地域ではレギンスやレッグウォーマーを重ね着する。
地域によって帽子の形、スカートのひだの広がり、丈の長さなどなど変わってくる、みんなかわいい。

チョリータについて

まだアンデス地域に足を踏み入れていないので、チョリータはそこまで見かけない。ナウタ、イキトスは全くと言っていいほど見かけないし、リマでは民芸品を売っているチョリータを観光スポットで何人か見かけるくらい。彼女らが景色の一部、その土地らしさを構成する役割を果たしていることを実感して、これからの旅にわくわくした。
と同時に日本だったらどんな点景がらしさを出しているのか疑問に思った。浴衣や着物は特別な日にしか着ないから人から滲み出ることはないのか。家の前の信楽焼のたぬきとか、どこの家にあるわけでもないもんな。

9/12 頭パンパン、そして春雨

○Museo de la inmigración japonesa al Perú/ペルー日系博物館
施設で働く方を友人を通じてを紹介していただき、ありがたく、彼の解説と共に博物館を巡る。

歴史:
1899年、佐倉丸に乗った790人の日本人(男性のみ)が最初の政府が率いる集団移民としてペルーに到着した。
実はそれ以前に1596年、フランシスコ ハポン呼ばれる日本人が神父に奴隷として売られたという記録が残っているらしい。
1899〜1923年までの移住者はペルーの民間の移民会社と契約を結んだ。(契約期間4年、労働時間は農地の場合10時間/精糖工場の場合12時間、月給約25円/十分魅力的な値段だったそう)
初期移民は天候、食べ物、慣習、言語、病気などで苦しみ、都市、ジャングルのコーヒー農場、ボリビアのゴム農場へ逃亡するものもいた。
働き続けた人々の多くは現地で妻を見つけた人だったことから、第二陣以降は女性も加わることになる。

気になったところのざっくり内容

宗教:
現在日系社会の92%がカトリックを信じているが、仏教、神道、カトリックが混ざり合った慣習が残っている。小さな神棚仏壇が大きな家には残っているそう。さらにお盆と裏盆にはペルー国内にある日系人墓地に集団でお参りに行き、お線香をあげる。お葬式ではおまんじゅうがおもたせとして渡される。

気になったところのざっくり内容

商売:
仲間うちである期間内に毎月一定額を共有資金として出資し交互に資金を獲得する、相互扶助の精神に基づいた資金援助の仕組みであるタノモシという、日本でも古くから行われてきた仕組みがある。これによって新たに商売を始め、ペルーの日系社会は成長してきた。タノモシの延長として、現在も日系の信用金庫が複数残っている。
初めはスペイン語を必要としない散髪屋や写真屋を営む日系人が多かったという。徐々に喫茶店やコンビニのような小売店など、商売が多角化していく。コンビニの多くは道角に設けられ、ペルー人は los chinos de las esquinas/角の中国人 と呼んでいたそう。急速に成長していく日系社会をペルー国内の商工業者や労働組合はよく思わず、怪しみ、ラジオなどのメディアを通じて批判を始め、政府の政策として商売の制限が始まる。
日独伊三国同盟などの影響もあり、日本人が武器を隠していて国を乗っ取るのではといった憶測が流れ、多くの日系の商店や住居が襲撃に遭う。

気になったところのざっくり内容

戦争:
1942年4月、ペルーに移住した日本人とその家族がアメリカの強制収容所に送られる。
戦後、日本人移住者らはペルー社会に同化することに重きを置き、親も子どもがいじめられないようにと多くの家庭でスペイン語が話されるようになる。

気になったところのざっくり内容

博物館がある建物は日系コミュニティを支える、その他様々な役割を担っている。

例えば県人会の事務所。県によって大きさは様々。若者の参加人数が少なく、年々小さくなっているそう。沖縄県人会はずば抜けて大きいので、別に建物と運動場を持っている。

ホール。ここでは平日毎日おじいちゃんおばあちゃんが集まり、歌ったり踊ったり、いろんなアクティビティをしている。人数が多いため、グループごとに日時が決まっているそう。ここでサータアンダギーやお漬物、干し柿なんかが売られていた。

レストラン2つ。初日に行ったレストランは歴史が長く、日本の家庭の味と日系料理が楽しめるもの。
この日連れて行っていただいたレストランは割と新しく、ペルー料理と日系料理が楽しめるもの。現地の人で賑わっていた。
いただいたのは、魚のフライが入った lomo saltado/牛肉の醤油炒め 。普通は肉だけなのだが、白身魚のフライが入っていて、確かにちょっと日本風だ。沖縄そばの麺に huancaina というペルー定番のチーズソースを絡めたものも少しいただいた。極めつきは巻き寿司盛り合わせで、パッションフルーツソースをつけていただく。醤油の方が美味しいのに、と思いつつ。

日系料理がペルー人に受け入れられ、流行り出したのはここ10〜20年の話。それまで日系料理は裏メニューで、日系人が営むレストランはペルー料理を提供していたそう。徐々に人気が出たことから、ペルー料理と日系料理どちらも出すレストランが現在多く存在し、メニューにも carta Nikkei と特別枠が設けられるようになった。
これは中華料理も似たような状況で、chaufaといってペルー版中華料理を提供するお店でも裏メニューでローカルな中華料理が食べれるらしい。似ているようで大きな違いは、中華料理はリアルが裏で食べれるのに対して、日系料理はやはり「日系料理」としてとどまっているところ。全然悪いことではなくて、面白いものだなと思ったのだ。

加えて若い世代の日系人アーティストの展示会もやっていた。日本語を話さない彼、彼女らが、日本文化や日系文化、育ってきた環境、伝えられてきた歴史、見てきた写真などを通して自分のアイデンティティと向き合う様子が作品から感じられた。全部とてもいい。

○Lugar de la Memoria la Tolerancia y la Inclusión Social
前日に行ったMercado San Isdroの近くにある資料館。この前は閉館間際すぎて流石に回れないと思って諦めたのでリベンジ。



1980年代から2000年代初頭にかけての武力紛争やテロリズム、それに伴う武力紛争をテーマにしている。
内容は重く、充実していて、加えてデザインがかっこいいのが印象的だった。ただ英語の解説がなく、音声ガイド案内のQRコードも中身のGoogleドライブは空っぽで、そこまで深く理解できなかったのが残念。

ペルーで大統領を務めた日系人、フジモリさんが亡くなった翌日にここに訪れたのはとてもタイムリーだったなと思う。
彼は1990年から2000年までペルーで大統領を務めた。テロリスト軍団に対する強力な軍事政策によって治安改善に貢献したと言われる一方で、軍や治安部隊による多くの市民の虐殺や拷問が行われ人権侵害が発生していた。展示では彼の行ったことはかなり批判的に書かれていた。同じことが二度と起きないよう。

○Museo Amano/天野美術館
おすすめされた美術館に行ってみる。日本人の考古学者兼実業家である天野芳太郎さんがコレクションしたペルー古代の織物を中心に展示されている美術館。

閉館30分ほど前に滑り込んで入り、ありがたいことに日本語の解説があったため解説をすらすら読みながら実物をじーっくり観察し、少し時間が足りないと思いながら退出した。
何千年も前にこんな豊富なデザインの織物が織られていたことに驚きを隠せない。おかしな話だけど、ものすごくモダンなのだ。芸術は変わり続け、残り続けるものだ。

この日も歩き回って帰宅し、先日買った初めましての caigua を使ってサラダを作った。追加で友人が春雨をゆがいてくれた。好物らしい。確かにこっちの日系スーパーでは絶対春雨が売っている。私の家ではあまり出てこないから意外。

9/13 カウカウが決めて

みんなでお出かけデー!

○老舗でブランチ
ブランチぐらいの時間帯に、老舗TABERNA QUEROLOへ。なんでも美味しいらしく、友人にお任せして色々頼んでもらった。美味しい。

なんでもオリーブが一つだけ入っている。これはスペイン征服時代、家族や友人を招待してお食事をいただいく席で、裕福な証として入れられていたものらしい。食事を特別なものにするという意味が込められている。

ここのお店のグッズに書かれているお言葉がおもしろい。

”si le gusta el cau cau cásate”
“もし彼女/彼がカウカウが好きなら結婚しなさい”

バッグとTシャツがあった

カウカウとは内臓の煮込み料理で好き嫌いが分かれるけど、おいしいリマの定番料理。カウカウが好きなら間違いないよって。

お店の近くの銅像。アルゼンチン、チリ、ペルーを独立に導いた、アルゼンチン人であるサン・マルティン。寄付者にはイタリアと日本の血筋を引く人が。全てごちゃごちゃである。

TacchinoさんとOharaさん

ブランチの席で教えてもらったもう一つのこと。
16世紀にスペインに征服、植民地化されたペルーではスペイン人(白人)が政治や経済の中心にいた。その一方で先住民やアフリカ系は低い地位に置かれ、労働力として使われていた。1821年に独立した後も社会の上層部には白人系の人々が多く、白人系エリートの多くはリマに住み、ビジネス、そしてソーシャルの場に多く現れた。TABERNA QUEROLOは1900年代創業で、ペルーの上層階級が集まる場となり、店に飾られている昔の写真はほとんど白人しか写っていない。

白人が偉い、すごい、地位が高い、こういった考えは今でも残り続けているらしく、肌の色が黒く、髪が長い明らかに先住民系の人々はこういった場(歴史があったり、少し格式の高い場)に訪れると二度見されることもある。

まちの様子や食べ物から、あらゆる人種を受け入れ、合わさっているようなら印象を受けていたので、白人至上主義のようなものがまだ蔓延っていることに驚いた。そして気が付かなかった。

○セントロで本格中華とペルー風中華
続いてリマのセントロへ。海岸沿いばかり足を運んでいて、こっちまでこれていなかった。大きな中華街や広場があり、海岸沿いの比較的高級エリアと比べると、雑多だが、それが楽しい。

体重測ります

あんまりお腹は空いてないけどせっかくなら、ということで中華屋さんへ。ペルー版中華か、本場中華か、どっちもか、選んでと言われて、ペルー版中華をリクエストしたわたしと、本場中華を食べたい友人の折衷案でどっちも食べれるお店に入る。全部美味しい。
ペルー人に人気な、いわゆるペルー版中華はchaufa/炒飯、ti pa kay/鶏のぱりぱり揚げらしい。

ti pa kay

そして中華には絶対インカコーラ。しょっぱいから甘さが強いインカコーラが合うらしい。苦手なのでパスしてお茶。あとから友人らはやっぱりインカコーラ飲みたくなる、とぼやいていた。

9/14 これがリマの底力

朝から豚汁をコトコト作った。友人らは柔らかい味だね、と言い彼の方は塩を加えていた。おい。
出汁を持ってきてたらよかったのだけど、持ち合わせていなかったので鰹節を一袋入れてみた。なんとなくコクが出た気がする。

薄く切るのは無理

○ペルーといえば、リマといえば、セビーチェ
そんなこんなでおしゃべりしていて、まだリマでセビーチェを食べていないと言ったら、今すぐ行こうと言われ、punto azulへ。リマで一番最初にできたセビーチェ屋さんで、今ではチェーン展開されている。新鮮かつ混み始める前の13時前。

必ずスープが出てくるらしい
Surtido con salsa oliva
日系人のおかげで食べられるようになったタコ。
オリーブのコクが深いソースと一緒に、クラッカーに乗せていただく。
Ceviche pescado
これがもう信じられないくらいにおいしい。

1. プレインカ:生で
ペルーの沿岸部に住む人々は新鮮な魚を料理に使い、保存のために塩や地元で採れるaji/唐辛子を使っていた。彼らは、魚を chicha/チチャ(発酵したトウモロコシの飲み物)や果物のジュースでマリネして食べていたと言われいる。酸味のある液体に魚を漬ける方法は、この時期に既に始まっていたと考えられている。

2. スペイン植民:生をあやしんで一晩つけて
16世紀スペイン人がペルーに持ち込んだライムが、セビーチェの味付けに重要な役割を果たす。ライムの酸味は、魚のタンパク質を急速に「調理」する効果があり、生の魚をそのまま食べることが多かった先住民の料理に新たな風味と技術をもたらした。スペイン人らは魚を生で食べることに躊躇し、魚が白く「調理」されるまで、ライムに一晩漬けていた。
また、スペインから導入された玉ねぎやコリアンダーなどの食材も、セビーチェの風味を豊かにする要素として定着した。

3. 日系の影響:生で
19世紀末から20世紀初頭にかけて日系人がペルーに移住し、20世紀半ばから日系人の魚を取り扱う技術が浸透し、セビーチェも変化を遂げる。
魚をライムジュースに短時間だけ漬け、新鮮さと自然の食感を楽しむスタイルが定着。

セビーチェの歴史/ChatGPTがいろいろ教えてくれた
Leche de tigre
セビーチェをマリネするときに用いる液が主役の食べ物。冷静スープみたいなイメージで、魚は液で白くなっていて、バナナチップスをつけて食べるのが定番。
Tacu tacu con salsa al macho
これはアフリカ系ペルー人の影響で生まれた料理。
奴隷としてペルーに来たアフリカ系の人々には状態の悪い食材が回ってきた。それらをみじん切りにしてお米と和えた、炒飯のようなもの。この上にかかっている魚のクリーミーソースがとんでもなくおいしかった。

こんなに食べれるかと思ったけど、みんなで最後は頑張りながらも、美味しくいただいた。この日改めて、ペルーが美食の国と言われる理由が分かったような気がした。

豊富な食材を合わせて複雑な味を作り出すこと、各国から来た移民たちが生み出す新たな料理を受け入れること、料理に時間をかけるのを厭わないこと。

友人に伝えたら、お米を炊くのもそれぞれの家庭のこだわりがあると教えてくれた。彼はお米を炊く達人らしく、何分に火を強くして、何分に火を止めて、何分蒸らす、と分刻みで決まっていた。コンロや鍋が変わるとまたまた変わってくるので、一番美味しく炊けるまで実験するらしい。これは彼の職業が建築家でこだわりが強いタイプというのもきっとあるけど。

○性と死
連日の食べ過ぎで胃の消化が間に合っていないので、お散歩に出る。夕方たどり着いたのは Museo Larco/ラルコ美術館。

ラルコさんが集めた品物が並ぶ部屋は圧巻だった。
この美術館で人気なのは、エロティックギャラリー。その名の通り古代ペルー文化の性に関する作品が並んでいる。なかなか刺激的だった。めちゃくちゃ直接的にオブジェになっていた。
性行為や生殖、性と死の結びつきが表現されている。死後の世界でも性的行為は続けられ、死後も魂というか強い力のようなものが残り続けているという意味らしい。

美術館を出たのが19時。バスを探すのも面倒で、治安は良い方の地域にいたので1時間弱早歩きで帰宅した。途中から鼻歌歌って。

9/15 ひとりで全部

リマで丸一日過ごせる最後の日。何をしようかと迷っているうちに午前中が終わりそうになり、もう一度中華街のあるセントロへ向かうことにした。

日曜日の中心地はすんごい人。青空市が開かれ、なんでも売っている。中華街を出てとりあえず人が進む方向にわたしも続いてみる。

中心地はあまり治安が良くないので日が暮れてきて抜け出した。ネットフリックスに出てきたpicarones/ピカローネス屋さんへ向かう。

1つだと picaron/ピカロン、2つ以上だと picarones/ピカローネス。
ペルーの夕方ごろからでてくる定番の屋台おやつ。
小麦粉、カボチャ、芋を混ぜて生地をつくり、丸くドーナツ型にしたものを揚げる。仕上げにサトウキビシロップをたっぷり。
よくあるピカロン屋台は4つで4-5ソル(約200円)。

ピカロネスについて

大きくてどっしりしたのが5つ入って10ソル(約400円)。少々お値段がするがまぁ買ってみる。周りは2,3人で分け合いっこしてる中、一人で食べ切った。
2個食べた時点で無理かもと思って、一人で並んでいる人に「一人じゃ食べきれないのだけどもし一人だったらいりませんか」と話しかけたら連れがいたらしくガッツリ断られた。
寂しいし恥ずかしいし、確かに自分だったら怪しがるだろうなと納得し、その場から離れて残りの3つをいただいた。そういうこともあるよね。


リマの高層ビルは夜中も明かりが灯っている。こんな時間まで働くのか。
ビジネスも文化も人も、集まるのはやはり大都市。たくさん溜まっていく学びをどう咀嚼していこうか。

@Lima

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