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森を探す

社会のシステムの外

マイノリティというのは、「社会のシステムの中に組み込まれているか否か」だなと、つくづく思う。
たとえ数が多くても、それが社会のシステムから外れていれば、マイノリティにあたると思う。
私は、それがマイノリティと知らずに、うっかりマイノリティ側になってしまった。
そのきっかけは出産である。

「子ども」という存在は、現代社会では、完全にシステムの外にある。
「子どもを育てるのに適した環境」と「現代社会」があまりにも乖離している。
親は、その板挟みになって、果てなく疲弊している。

板挟みになる親

子を持って、いろいろ勉強しながら、毎日過ごして思うのは、子どもはあくまで「自然」の側にいる、「動物」なのだということ。
「7歳までは神のうち」というが、少なくとも未就学児は、まだ人間というより動物であり、そんな未熟なありのままの存在をしっかり肯定してあげることで、心の安全基地がしっかり確立されるということである。
「待つ」ことや、子どもの変化に「気づく」ことが、親に求められる時期だ。

しかし、社会の側は、その未熟さや動物的な部分を受け入れられない。
待っている時間はないし、変化に気づく余裕もない。
間に立つ親は摩耗する。

コンクリートで木を育てる

言ってみれば、「コンクリートで木を育てようとしている」状態である。
木を育てるにはどうしたって土が必要だ。
大きく育つ木は、たくさんの土を必要とする。
それなのに、私たちにはプランターしかない。
制度設計側の人間は、ロクに子育てしていないので、プランターで十分だと思っている。
家庭菜園ではない。木を育てるのに。

そうやって、無理矢理プランターで育てた結果が、観葉植物や盆栽になる。
100%親が管理して、親の許可した栄養だけ与え、なんなら親の気にいる方向に針金で捻じ曲げて、小綺麗な「作品」を作り上げる。
そういう「作品」は、誰かの管理下を一生離れることができない。
自分の力で根を張って生きていくことが、とても困難になる。
支配型の毒親が、あっという間に完成する。

そうはなりたくない。
しかし、プランターしか持たない私に何ができるだろう。

撫育

最近、「撫育」という言葉を知った。
林業などで使われる言葉で、例えば、栗の木を増やしたいと思った時、他の木を伐採して栗の木を植樹するのではなく、栗の木が育ちやすい環境を整備してあげることを指すらしい。
まめに山に登り、栗の木の成長を邪魔する蔦があったら払い、岩は退かし…こういうことを、日常的に、反復してやるのだという。
そうすると、山に負荷をかけることなく、長い年月をかけて、人間にとって都合のいい山が出来上がる。
時間はかかるが、今の日本の杉山みたいなことにはならずに済むのだ。
これって子育ての理想型だなと思った。
盆栽ではなく、撫育で育てる方法はないのだろうか?

森はどこに

まずは森の中に木を植えなくてはならない。
森とは、言い換えればコミュニティだ。
家庭と社会の間の緩衝地帯。子どもを許容する地域社会。
それは、どこにあるのだろう?
もしかしたら、日本にはもう、消えてしまったのかもしれない。
育児でヘロヘロになりながら、森を探したり、開墾するのはとても辛い。
でも、探すしかないのだ。

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