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互いに労りあうコトだけ考えていればよい

結婚とは何か?

なぜ結婚をしたのか?

最近の私は、そのことを言葉にするために必死に考えていた。考えたかったからではない。言葉にできないことに自分が戸惑いを感じたからだ。



結婚に多くの人が求めるもの。それは何かは知らないが、私のそれとは違っているように思った。甘い交わりも、優しい気づかいも私は求めていない。経済的な安定は、結婚に求められたらよかったが、それも叶わなかった。

そもそも、私を結婚に駆り立てたものは「デートをしなくてよいから」というもの。仕事が忙しく、休日にデートをする体力と気力がないから、結婚をしたいと考えたのだ。

これでデートをしなくていい。そう思ったら結婚がとてもバラ色に思えた。家に帰れば会える。それだけでよかったのだ。

とはいえ、しばらくは、通い婚だったから、会う段取りはつけなくてはいけなかったのだが、それでも、「わざわざ出かけたりしなくてよい」というのは、楽ちんであったから、結婚した甲斐はあったのだ。



そうこうしているうちに、結婚して月日は流れ、もうすぐ結婚してから9年が経とうとしている。お互いの休みは好きなことをして過ごす。とても気楽な夫婦関係だ。

時々、これでよいのかなと思うこともなくはない。だから、「夫婦とは何か?」「なぜ、この結婚を選んだのか?」「とどのつまり私にとって結婚とは?」と自問をしてしまうのだろう。

その波が、先日訪れて、しばらく私の脳内を漂っていた。日頃は、結論らしいものが出ることはないのだが、今回は、それらしい結論にたどり着いた。

労りあうコトだけ考えていればよい。そういう関係が結婚。その気持ちの表現として、料理をして、ともに家事をして、互いの健康を気遣う。それが私の選んだ結婚なのだと思えた。



家を建てるときに「私たちのことを夫婦とは思わず、仲の良い大人が二人暮らしをしていると思って家を設計してください」とお願いした。これは、全く奇妙なお願いのようでもあり、私たち夫婦にとっては、あまりにも事実をぴったりと言い当てた文言だった。

他人同士が互いを労りあいながら一つ屋根の下に暮らす。ただそれだけのこと。それ以上を求めず、それ以下にならないと誓いを立てたのだ。

互いを労りあうコトだけ考えて、ほかは自由きままに暮らすこと。「これを私たちにとっての結婚とする」と決めた二人の意志こそが「結婚」なのだ。

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