見出し画像

「親ガチャ」という発想こそが人生を不遇にする:よりよき人生のための糸口とは?


「親ガチャ」という言葉を好み、自分を産み育ててくれた親に問題があるため、不遇の人生を送っていると主張する人がいる。

「親ガチャ」とは、ネグレクトや暴力といった犯罪者級の親の話ではない。「人並みの暮らし」を与えられたとしても、不遇として認識されているときに使われるようだ。「望ましい育て方をされていない」という理由で、親ガチャとして人生を語りたくなるらしい。

子どもにとっての親というのは影響力が大きい存在である。だから、そういう風に語りたくなることは、わからなくもない。だが、そういう風な結論づけで人生の問題は解決するのだろうか?



「ガチャ」にはハズレだけでなくアタリもある。「親ガチャ」という言葉を好んで使う人は「アタリの親」という存在を妄信しているのではないだろうか。

親にアタリがあるという幻想こそが問題だろう。

ガチャというのは、受け取る側の主観に左右される。つまり、アタリがハズレになることもあるし、ハズレがアタリになることもあるのだ。

例えば、コンプリートを目指していて最後にソレが欲しかったという人にとっては一般的にハズレと思われるものであってもアタリと感じるだろう。



親には、アタリもハズレもない。親は親である。と同時に他人でもある。

その他大勢の他人と同様、人生の関わりの中で、「ハズレ」と感じることもあるし、「アタリ」と感じることもあるだろう。

個々の感じる不遇の人生には様々な側面がある。おそらく誰でも一瞬は「この親でなければもしかして」と脳裏をかすめることがあるだろう。苦しいからこそ理由を他人に擦り付けたくなるのだ。とはいえ、人生の不遇を総じて「親ガチャ」に関連づけることには無理があるだろう。

人生は短いようで長い。一時は不遇に思えたことが、別の見方をすると恵みであったと悟ることさえある。

「親ガチャ」をアタリと感じるまで生きてみること。その姿勢こそが根本的な問題解決の糸口ではないだろうか。