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春を信じて冬を迎える

芝生の色が変化してきている。自らの葉を枯らし、冬を迎えようとしているのだ。

芝といっても種類がある。我が家は高麗芝という種類。温暖な地域での生育が可能で、かつ、冬には枯れる、即ち、休眠をする品種である。

休眠は自らの命を守るための手段。寒波に襲われても芝生としての種(しゅ)を守るために休眠するのだ。

冬枯れの色を知ってはいる。芝生の手入れ本などで知識を入れ、自分なりに理解はしている。

それでも、青々としていた芝生が黄色く変化していく様子を見ると胸が苦しくなるのだ。

本当にこれで大丈夫なのだろうか?

冬を迎えるのではなく、本当に枯れているのではないか?

少しでも長く青い状態を保つために自分にできることがまだあるのではないだろうか?

さまざまな思いが交錯する。

ここで焦って追肥をすると、芝生以外の植物、つまり雑草と呼ばれる類の植物の肥料となってしまう。冬の芝生を美しく維持するために、このタイミングでの追肥には慎重さが求められるのだ。

「やるべきこと」はやっている。だから大丈夫だと自分にいい聞かせても気持ちは晴れない。

「芝生は青くあるべきもの」という固定観念に縛られているからだろう。

この固定観念は、人生はキラキラしているべきで、楽しくて嬉しくて幸せいっぱいであることが望ましいという考え方にも通じるだろう。

人生に起きることを善か悪か、幸か不幸かで判断して、あるべき姿を決めこみ、そこから外れることを好ましくないと感じてしまう。だが、そんな考え方を一旦脇に置いて冷静になってみよう。

今は冬を迎える時期だから、我が家の庭の芝生にとっては、枯れていくことが「最適」なのだ。

辛くて泣きたくて不幸のどん底にあることも、通過点として考えればよい。人生の冬には冬なりの過ごし方がある。それを知って命を運んでいけば、春が訪れるだろう。

長く生きていれば、人生の冬を迎えることもある。

肝心なのは冬を生き延びること。

芝生は自ら枯れることで冬を生き延びる。一見、後退とも思われる休眠の姿は、「生きる力」そのものなのだ。

そんな心持ちで、枯れゆく芝生を見つめていこう。

春が来ることを信じて。