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与えた場所は「身の丈に合う」環境ではなかったのだとしても

私は自称雑草LOVERだ。

だから、私好みの雑草には、特別な配慮と環境が与えられる。それが私の庭の掟。

好みの雑草はいくつもある。名前をよく知らないものから、広く名の知らた雑草まで。やり方は色々とあるが、人の手を少し加えるだけで、雑草と呼ばれる類の植物は勢いよくい育つ。それだけ生命力があるのだろう。

生命力の強さ。それが雑草に惹かれる理由でもある。だから、雑草が蔓延(はびこ)る様子は、決して嫌いではない。むしろ、感心しながら眺めるほうであった。

ところが、この春。

なんとも奇妙な現象を目にしてしまう。

昨年の春、定植したニワゼキショウの背丈が大きく成長したのだ。



ニワゼキショウといえば、背丈10センチから20センチ程度の背丈の草で、その先に親指の爪より一回り小さい可憐な花を咲かせる。

少なくとも今年の春を迎えるまでは、そのようなものだと私は思っていた。

ところが、この春、ニワゼキショウが大きく丈を伸ばしてきた。

ニワゼキショウでも、ときには25センチくらになるものはある。だが、私の庭で成長したニワゼキショウは、50センチ近くあるのだ。いったい何がこの植物をここまで成長させたのか。

この背丈に咲く花のサイズは、どんなものかと淡い期待をよせて開花を待っていたが、花のサイズは従来通り。当たり前の花が当たり前ではない背丈の茎に咲く。それは、なんとも情けない花姿だった。

ほとんどが草にしかみえない。その草の先に、チョコンと小さい白いものがついているといった見た目。記憶の中のニワゼキショウとは似てはいるが、これはニワゼキショウだろうかと首を傾げてしまうほど「不思議な植物」になってしまっていた。



ニワゼキショウがこんな姿になったのはなぜだろうか?

過保護の環境のせいだろうか?

観察した。じっくりと何日もかけ様子を見てみた。そして、人の手をかけたから、そのおかげで勢いよく育ったという理由とは違うのかもしれないと思った。

実の重さでニワゼキショウがじわじわと倒れてきたからだ。

ニワゼキショウが倒れると、先端についた実は、地に落ちて新しい命へと繋がっていく。つまり、背の丈を伸ばした分だけ親元から離れた地へと根を下ろすことができるというわけだ。

もしかしたら私の与えた環境は、決してよいものではなかったのかもしれない。大切にしたい思いから与えたつもりの定植地であったが、実際は、ニワゼキショウにとっては、「次世代を残そうと思えない場」であったのだ、おそらくは。



「親の心子知らず」というが、案外「子の心親知らず」でもあるのだろう。

保護して与えたつもりの定植地。だが、ニワゼキショウにとって身の丈に合わない環境に置いてしまったのだろう。「私の親心」はアリガタ迷惑だったのだ。

与えすぎてもダメなのだ。過不足なく与える。その絶妙な域を知ること。

身の丈に合うとは、程ほどを知るということ。身の丈に合わない環境で育ったニワゼキショウは、「身の丈」とは何かを諭しているようだった。

しかし、その地を離れて別の場所へと更なる次の世代を残そうとする力を持つのは、やはり雑草の生命力。

与えられた場所が「身の丈に合う」環境ではなかったのだとしても、身の丈に合った場所を求め、ニワゼキショウは背丈を伸ばす。

その戦略がうまくいけば、来年の春、自ら切り拓いた新天地で次世代の花を咲かせることになるだから。