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生エビに対する憧れはどこから来るのか?

海沿いの食堂街にいた。数週間前のことだ。

夫とのドライブ旅行でお昼に何を食べるか相談していたときのこと。どの店も海鮮づくしのメニューが豊富にあり、目移りするほど。

その日から遡ること数日、実は、別の場所で海鮮丼を食べていた。

だから、今回はアジフライ定食なんかもアリかなと思ったりしたのだが、結局海鮮丼を選んだ。

地魚をメインとしてヒカリモノの海鮮丼のお店もあったのだが、どうしても華やかさが不足しているような気がして、ある意味「定番な感じ」がする海鮮丼のお店を選ぶことにした。

またまた定番の海鮮丼だなと思いつつも、実際目の前に海鮮丼がやってくると、テンションがあがる。海鮮丼を見るだけで心躍るのだ。

しかも、海鮮丼に生エビが乗っているということが、私の心の奥底にある「何か」をくすぐるようだ。

エビというのは、子どもの頃から「高級食材」として刷り込まれているからだろうか?

実際、エビというのは子どもの頃は食べる機会が少ないものだった。食べる機会があったとしても、火を通したものが主流だったと思う。それがいつからか、生でエビを食べることができるようになっていく。

今ではスーパーの寿司さえも生の「甘エビ」ネタで握られている。

それほど珍しいものではなくなったはずなのに、エビを生で食べるというという状況になると、頭の中でファンファーレが鳴り響くのだ。

時代が変わってもなお、子どもの頃の刷り込みは変わらないものなのだろう。

海鮮丼を食べた海沿いの食堂街は、エビが名産という地域ではない。

それでも「生エビが乗ってる海鮮丼を食べる」という気持ちを抑えることができなかった。

今回のように、生エビに対する憧れを自覚するたびに思う。自覚があってもなくても、刷り込まれた価値観というものが存在するのだと。

自覚があるならまだマシだろう。恐ろしいのは、自覚なく刷り込まれた価値観というものの存在。思考の枠であったり、先入観といったもの。

大学の一般教養でお世話になった教授が次のような話をされていた。

私たちは「時代に縛られている」のだと。

当たり前と思っていることは、生まれ育った時代に影響を受けながら身につけてきた習慣でしかないのだ。

そして、普通のことを疑いなく「普通」と思ってしまうことの愚かさ。普通のことを疑いなく「普通」として思えることの利便性

愚かさと利便性、その両方を自覚することは難しくもあるが、「問題がおきたときに解決の糸口を探す」ときには、その視点が有効であるのだと。

そして、新しい価値観を受け入れるときには、その視点が求められるのだとも。

生エビへの憧れを再度認識して、その言葉を思い出していた。