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ソウルメイト

不思議な関わりのある友人がいる。

彼女は私より10歳ほど上だと思うが、年齢の詳細については知らない。

卒業した大学の名前は知らないが、専攻や学部、現在の職業などは知っている。その程度の関係だ。

それでも何か惹かれるものがあるのだろう。時々は連絡を取り、近況を知らせている。

彼女と私の口癖は、「毎日が修行のようですね。」というもの。

人生とは修行だという意見で一致しているのだ。

そうでも思わなければ、これほどの苦しみが与えられることに納得ができないと感じるからなのだろう。

あるいは、そう考えると気持ちが楽になるからという「根拠のない理由付け」かもしれない。

なんのためにこんな苦しい思いをしなくてはならないのか?

そんな疑問に終止符を打って、先に進むためには「人生は修行だから」と思うしかないということなのだ。

人を信じたい。でも信じすぎると騙される。騙されるからといって信じないわけにはいかない。

そういう押し問答のような会話を延々とできる関係。彼女と私はそのような間がらだ。

けれども、「初めまして」と出会ったときには、それほどご縁を感じたりはしなかった。居心地の悪さや緊張感すら感じたかもしれない。

その後、彼女の身の上に「普通では考えれない」ような災難が襲い掛かる。ニュースに取り上げられるような突発的な理由で、配偶者を失ったのだ。

それを契機に、彼女の印象は大きく変化していく。


友情というほど軽々しいものではない何かがある。そういう思いを抱かせてくれる相手は得難い存在だ。

彼女と私は、互いのことをソウルメイトと呼び合うことはないが、メールの結びに好んで使う言葉は「心の友」。

ベッタリと過ごすことはないが、どこか互いの存在を気にかけている。人生は修行だという人生観で生きていくことの成果を時々報告しあう。

そういう存在がいることで、人生の苦しみ自体が和らいでいくような気がする。だから、私も相手にとっての「そういう存在」であり続けたいと思う。

人生修行の行方を見守りつつ。