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「来年の祭り」という響きに哀しさを覚え

高齢者の方とのつきあいも田舎暮らしの嗜みのひとつ。

どっぷりと深くつきあうわけではないが、興味が同じ、住んでいる地域が同じといった共通項を見つけては、ほんわかとしたおつきあいをしている。

最近の話題はもっぱら感染対策のこと。

「この地域では感染者がゼロみたいなもんだから、感染者に対する目が厳しい。絶対に、絶対に、感染すんなよ!」

冗談交じりで孫たちに脅しをかけてるんだという方もいる。実際のところ、それは本音の部分でもあるだろう。

田舎だから、「人の目」がある。それはいい意味での感染予防対策でもある。だが、一旦感染者となったなら、人の目は、恐怖の刃(やいば)となるのだ。

田舎独特の厳しくも有益な「相互監視体制」の中、窮屈な思いをしている人が多い。そんな中であっても、徐々に新しい生活習慣に順応し、田舎ならではの新しいスタイルも生まれつつある。

例えば、マスク生活において、声かけをすることが増えた。表情が見えないからこそ、空気を読ませるよりも、きちんと伝えようという流れが生まれたようだ。

マスクをしてスーパで買い物をしているときなど、距離を保ちながら互いに進路を譲るタイミングで声をかけあう。互いに顔をやや背けながら相手の目を見て、「お先にどうぞ」、「どうもすみません」といった言葉を交わす。

特にこの地には、気が優しい人が多い。そのため、こういう新しいスタイルが自然と生まれたのかもしれない。誰に教わることもなく、「マスクをして顔をやや背けながらの相手の目を見て声をかける」やり取りが芽生えてきているのだ。

徐々に、新しい生活様式には慣れてきているが、もの悲しさを感じることもある。

特にこの季節、地域の祭りが行われるのだが、今年は祭りの中止が決まっている。

秋祭りに至っては、去年、秋以降の祭りは中止されていた。9月9日の台風のためだ。結果として2年連続で中止となる。

先日、「来年の祭り」という話題になり、会話の輪の中で、高齢者の方の表情が微かに曇っていることに気がついた。

その曇りから感じる悲哀の気持ち。どのようなことを思われていたのか敢えて尋ねなかったが、おそらくは、来年のことなんてわからないよ(生きてるかどうかわからないよ)という気持ちだったのだろう。

来年があるから今年は我慢して。

新しい生活様式には適応できたとしても、来年があるからという言葉に説得力は見出すことはできそうにない。

お花見の時にも、そんな声かけをされてはいたが、「来年が来ること」が当たり前ではない人もいるのだ。

高齢者に限らず。

そのような気持ちで、今をギリギリ生きている人がいる。

うっかりと口にしてしまった「来年の祭り」という表現。

禁句にしようと誓った。