怒りを言葉に乗せないでいること
TwitterなどのSNSで見かける不快な言葉の本質について考えてみた。
おそらくは「怒り」だ。
一緒に怒りたい。何かに怒りたい。そういうツイートは見ないようにしているが、一見、怒りのようには映らなくても、根底に怒りがあるものは不快な気持ちになる。
一般的に「マウントをとる」といわれるような行為の根底にも怒りが隠されているように思う。
「自分こそは素晴らしい!」「素晴らしい自分を認めよ!」という怒りだったり、「有能な自分がこんなに親切にしてあげてるのだから感謝せよ!」という類の怒りだ。
承認欲求の渇望が、怒りを生み出すのかもしれない。
しかし、承認欲求はそれほどに意味があるものなのだろうか?他者からの承認に価値を置きすぎではないだろうか?
他人の評価はそんなに大事なのですか?
他人はあなたにとって価値のある人なのですか?
見ず知らずの人からの承認にそれほどの価値があるとは、私には思えない。
私も怒りを感じることがあるし、それを言葉にしたい衝動にかられることがある。
今、「ゆるい怒り」を感じている事象があり、つい言葉にしたくなってしまう気持ちもあるのだが。
怒りを言葉に乗せないことに意味があると思うから。
言葉の力を信じているからこそ、沈黙を守っている。