手印

35 永劫回帰のバグ、あるいは無限世界の無限殺害理論

 黒ずんでゆく視界と、そこに巻き込まれてしまう同僚の姿を、看護師らは見た。
「え、つまりどういうこと? 怖っ」
 奇妙な事態に彼らはそう言うことしかできなかった。

***

 つまりどういうことなのか。

 思えば頭の中の何かをつきやぶってからというもの、私は病室に横たわる人間の視点というより、小さな神経片の視点寄りになっていたのではないか。私はベッドに横たわっている視点を保ってはいたが、しかし同時に目の前に薄い膜が見えたり、あるいはナースステーションの看護師らも見てたりしていた。この視点の若干の変化には意味があるにちがいない。
 おそらく、あの時点で、ベッドに横たわっていた等身大の私は意識を失ったかもしかしたら死んでしまっていたのではないか。そして、私はその患者から患者の内部の神経片に意識がスライドしていってしまったのではないか。

 意識のスライド?
 私の立てた仮説は次のようなものだった。
 人が死んで、死後の世界もない場合、人は当然何も経験することができなくなってしまう。無を経験するということも勿論できない。深い眠りを眠っていることを人が経験することができないのとこれは同じことだ。
 深い眠りの場合、意識は次に眼を覚ましたときか浅い眠りの夢のなかに復活する。その間の経験はなく、主観的には眠りの直前からスライドしてとばされたように感じるだろう。
 では死の場合、どうなるか。
 「永劫回帰」というニーチェの有名な考えは、古代ギリシアのストア派の世界観に根拠をもっているといわれる。ストア派の人々は物質の構成要素とその組み合わせが有限であると考え、それゆえ、究極的には同じ現象同じ歴史を永久に繰り返されなければならない。
 だが、この自然哲学だけからは永劫回帰は出てこないはずだ。このことが意味するのは私が死んでから那由多だか不可思議だか無量大数だかの時間の果てに私とまったく同じ姿でまったく同じ行動をとる誰かが生まれるということでしかない。
 さて、私はそもそも物質が有限でありその組み合わせも有限であるというドグマをあまり信用していない。そして、ニーチェのような人がこのような古代の自然哲学を素直に信じるとも思えなかった。それで、ニーチェはなぜ永劫回帰なるものを提唱しなければならなかったのか、と不思議に思っていた。
 それである時、こんな解釈をしてみた。ニーチェが永劫回帰で否定したかったのは「死という無」がそれ自体である種の彼岸に化してしまうことではないか。
 「死後の世界」を信じない世俗的な人間にとっても、死はなお彼岸である。騒がしく煩わしく気疲れする現世の果てにある死という無、永遠の安息。このような俗的彼岸はたとえば「死後語り継がれる名声」やら何やらで飾り付けることも可能だろう。
 「この生」をその外にある歴史によって意味付けることがある種の彼岸信仰であることは分かりやすいだろう。だがそのようなイデオロギー批判だけでは死という彼岸を否定することはできない。
 永劫回帰が否定するのは「死ねばすべてが終わりだ」という言明に含まれる彼岸信仰である。死ねばすべてが終わる。死ねばすべてから解き放たれる。このように考えつづけるかぎり、死はなにものかではある。だが死は無だ。ということは生がすべてだと考えなくてはならない。それも「この生」がすべてだと考えなくてはならない。
 「この生」が煩わしく気疲れするものであったとしても死はなんの助けにはならない。「この生」がすべてで、「この生」を生きるほかないのだ。こうしてニーチェは「永劫回帰」を語る。死という無さえも否定したところに、永劫回帰がまわりだす。
 話を戻そう。普通に考えれば、世界の永劫回帰は個人の永劫回帰をそのまま帰結しないはずだ。ある人間と、その遠い未来に生まれた全く同じように生きる人間とに何の関係があるのか。最初の人が死んだら、それで終わりではないか。遥か未来に全く同じような人間があらわれたとしてそれが何だというのか。
 ・・・・・・このように考えることこそ「死ねばすべてが終わりだ」という彼岸信仰に基づいている。死がいかなる意味でも無であるとしたら、人間は主観的には死ぬことができない。死は深い眠りのようなもので本人にとって無であり、それを飛び越してしまうことしか人間にはできない。それゆえ、死んだ人間は死を味わうことなく次の世界の周回の彼自身となって再び生まれることになる。ここで彼の意識は次の周回の彼自身へとスライドしていくわけだ。

 さて、頭の中の何かを破った時点で私は死んだ(か意識を失った)。だが主観的に死というものが不可能であるなら(そして「主観的に意識を失っていることを意識する」ことは矛盾である)私の意識はなにかにスライドしていかなくてはならない。
 私という身体の全体は死んでいたが、しかしその一部、一小片は死んでいなかった。そこに私は乗り移ったのだ。
 あの法廷の夢を思い出した。そこでは私は無数の私の一人だった。今起こっている事態を説明するなら、無数の私が統合された等身大の私が死んで私の一部分に意識がスライドしてしまった、と言えるだろう。
 しかし、なぜ全体の私が死んだのに一部の私が生きているのだろうか。・・・・・・そういえばあの夢で私の罪状は「自分殺し」だった。私の脳の中にいて私を殺そうとして来る細胞片、それは入院の原因である脳腫瘍そのものではないか。そうであれば、それだけが生き延びている説明もつく。私の脳腫瘍は悪性でそれ自身増殖力をそなえているのだ。
 もしこの腫瘍がなかったとしたら、私は即座に遥か未来に生まれる私に「回帰」したことだろう。しかし、腫瘍の方が時間的に近いので私はそこに乗り移ってしまったのだ。

 だが、それだけでは奇妙なパラレルワールド的事態については説明がつかない。説明がつかない・・・・・・が、現に私は体験している。
 世界は観測することによって存在しているといった類の説はよくある話だ。さて、もし死というものが不可能だとして意識が「終わる」ということがないとしたら、私は何かを意識し、何かを観測することを止めることができないことになる。それは同時にパラレルワールドを創り出してしまうことでもある。その世界に住む人々を創り出してしまうことでもある。そして、私という細胞小片が処分されるとき、そのすべてが死に絶えることになる。・・・・・・私はただ死ぬことしかできない何十億の存在を生み出してしまった、そういうことになるのではないか?

 ではさっき飲み込んだものは何か? ・・・・・・これもまたあの細胞片だ。このパラレルワールドでの。この世界ではその小片は処分されることなく私の腹におさまってしまったのだ。・・・・・・ということは、その細胞片こそこの世界が黒く染まりきって崩壊した後に私の意識がスライドする先になるということである。
 こうして無限の入れ子構造が偶然にも出現する。そして私は終わらない意識のなかでただ死ぬことしかできない無数の世界を生み出しつづけることになる・・・・・・。
 気が遠くなるような話だ。
 もしかしたら、と私は思った。もしかしたら誰も視界に入れさえしなければ誰も観測せず誰も生み出されずしたがって誰も犠牲にせずにすむのではないか。そう祈って、私はひたすらに眼を閉じた。

***

 ・・・・・・もちろん、以上の理論は完全なる妄想である。

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