曼珠沙華
真っ暗な、上も下もない世界。もちろん左右も、ない。
感覚に頼ることもできない、ただ茫漠とした闇が広がっている。
そんな中、『目を開いた』という感覚がしたのは奇跡に等しい。
『自分』を認識することができたのも。
そんな空間の中で。
「……は?」
確かに喉を震わせたはずの言葉だったが、響き渡り、耳に響き広がるはずの音は、なかった。おかしい。本来であれば、己が声くらい聞こえても良いものを。
けれど、確かに『自分』はある。その確信はあった。
意識があり、自己を認識することができている。
常ならば当たり前のこと。その感覚は生きている。
ただ、肉体を伴っていない。体の感覚だけがない。
それはまるで、精神だけがただよっているような。
「どう、なってるの?」
常ならば触れられるはずの体を自分はどこに置いてきてしまったのだろう。
手を伸ばし、自分の体を抱くようにして腕をさすってみるが、動く感覚はあっても、やはり感触がない。ただただ違和感のみが広がっている。
考えても答えは出ない。手のひらにも何の感触も返ってこない。ただわかっているのは『自分』がここにいることのみ。真っ暗な闇の中に。
恐怖を覚えないわけではないが、そんなことより驚きのほうが大きかった。そして、なぜか安心している自分に覚える疑問。
それが今自分の精神を満たしている。
そして、意識はどんどんと研ぎ澄まされてゆく。
「ここは……どこ?」
誰にも、自分にさえも聞こえない言葉であったが、身につけた習慣というものはおそろしく、無意識に口にしてしまう。
声も聞こえず、答えも返らなかったが、思うと同時、じわりと溶け出すように何かが現れた。何もない、真っ暗な闇の中でそれだけはボゥと光っていた。
それは、曼珠沙華。辺りを薄明るく照らし、輪郭を作り出す。
魅入られたように手を伸ばす。触れられる自信はなかったが、光に近付いた時初めて自分の手のひらを見た。
「触れてはダメ」
澄んだ、硬質な響き。
厳しい言葉でありながら、声音は柔らかかった。むしろ、憂いや気遣いさえ感じられる。
自分の声は聞こえず、体の感触もなかったが、その声だけははっきりと耳に届いていた。
言葉が続く。
「あなたがどこへ行くか、どこへ流れてゆくのか。決めていないのなら、それに触れてはダメ」
いつのまにか、隣には薄墨色の単を着た、少女。
手には淡く光を放つ、目の前に広がるあの紅い華。
「どこへ……行く? 流れる?」
少女は言葉にひとつうなずいた。
「これに触れる時は、あなたがどこへ行くか、どう過ごすかを決めた時。これは道標。人の命と道を指し示し、生と死の世界を繋ぐ華」
ここは、生と死の狭間。人は、生に迷う時、死に悔やむ時、ここに来る。
少女は淡々と言った。
「生に迷う?死に……悔やむ?じゃあ、私は死んでしまった、ってこと?」
「それはまだ決定されていない。あなたが選ぶことだから」
選ぶ。その言葉に、チクリと心がうずく。
「新しい生を生きるのも、生を放棄するのもあなたの自由。ここは、それを選んでいく場所。新しい生と、続く生。そして、永遠の終焉を」
少女は、ただ淡々と言葉を紡ぐ。
「華に触れれば、今の生を続けること。華にそって道を行けば、新しい生を得られる」
その言葉に世界が従った。そこここに生える華の傍らに、小道が見える。
「永遠の終焉・・・?」
「もう二度と、生を選ばないと言うこと。もっとも、例外はある」
プチリ、と華を摘んで、少女は告げた。
「こうすれば、自分の生を否定し、永遠の眠りにつける」
薄く、紅く、時に強く。
花びらが、視界に広がる。空に向かい手を伸ばすような姿は、救いを求めているのだろうか。
「新しい生を、今の続きを生きる? それとも、眠りにつく?」
静かな少女の問いに、しばし瞳を泳がせる。
風もないのにゆらゆらと、華が揺れる。手招きし、誘うように。
「私、は……」
見上げてくる瞳。硬質な言葉と抑揚からは思いもつかない深い色の。
めまぐるしく変わる虹彩の中に、厳しく問い詰める表情と、願い祈り、そして、全てを見通すチカラを持った万物の瞳。
「眠る……?」
小さな声だった。不安げな問い。
間は、なかった。
いいえ、と答える声は、はっきりと響いた。己の体に、耳に、世界に。
少し唇の端を持ち上げる。
「私は生きる。まだ今は眠るわけには行かないの。そして、新しい生をゆくほどよい行いをしていないし」
言い終わるころには、にっこりと笑いかけた。
「精一杯、今できることをして、それで満足したら、ここに来る」
「そう」
少女はその言葉にうなずくと、微笑んだ。
「じゃあ、華に触れて。それで、あなたはもとの生の世界に戻ることができる」
さようなら。いつかまた、どこかで。
交わす言葉は、笑みが宿っていた。
― ― ― ― ― ― ― ―
そうして、迷える魂が戻ったあと。一つの華がハラハラと散った。
少女の手の中にあった華。優しい微笑みを浮かべながら、少女は散る様を見守っていた。
「芽が出るのは、生の世界に、死の世界に迷った時。蕾が開いたら、また、戻ってくる……」
真っ暗な世界にぼんやりと灯がともる。紅の滴る華。
「わたしはただ、見守るだけ」
微笑みを消した少女の頬に一滴の涙が落ちた。
受け止めたのは、紅い灯篭。
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