撫子

 幼い頃の夢が、現実になることは、そう多くはない。
 時の経つうちに変化し、またそれ自体が消滅してしまうこともある。
 だいたいがそうだ。それが、この世界のルールと言っても良いほどの現実で。
 では、諦めることもできず、また実現することも叶わぬこの夢は、なんだろうか。

 未練、だろうか。

 それとも自分がまだ子どもなのだということだろうか。

 祝いの日は、いっそ憎らしいほどに晴れ渡っていた。
「ねぇ、いつ出発できるの?」
 母の問掛けに、私は答えられない。何が、とも言わない。
 分かっているから。
 けれど、答えることができない。
「そろそろ出ないと間に合わないわよ?」
 催促する声。それでも答えられない。
 それこそ未練を残したかのような足音が去っていくのを私は聞く。
 秋の風は、暖かいようで冷たさを内包している。心の隙間に差し込むように、ひんやりと胸を締め付ける。
 それは隠しているのか、それとも微かに感 じられる季節の変化を知らせているのか。
 春の風は、反対だ。
 冷たさの中に暖かさを持つ。夏に向かっていく、生きた風。
 春の風が、生きている、ということであるならば。では、今頬を撫でる風は、死に行く風なのだろうか。
「もう少し、もう少し」
 私はつぶやく。ごまかしに過ぎないと自覚している。
 けれど、つぶやいてしまう。
 まだ願う気持ちがやまないのが、不思議なほどに。
 さきほどまで爽快、と称するにふさわしい晴れ空の下に吹いていたはずの風が、ざわりと木立を揺らす。
 風は、湿り気を帯びてきていた。
 一一一雨、来るのだろうか。
「降れば いい」
 一一一降ってしまえば、いい。
 ポツリ、言葉がこぼれた。
 けれど言葉は空回りするだけ。生まれてすぐに、消え去った。
 空はいまだに晴れ渡っており、降る気配のない空に、唾を吐きかけたくなる。
 祝いの日。その主役のことを思う。
 出会いをまだ覚えている。早く大人になりたかった。
 そうすれば、この日が最良の日になったはずなのに。
「嘘吐き」
 言葉と共に、ぽろり。涙がこぼれた。
「ねぇ!」
 母の焦れたような声が木霊してくる。
 嫌だ。
 立てない。
 理解したくない。
 立ってしまえば、認めたことになってしまうから。
 縁側に下ろした足は、縁の下から伸びた何かにつかまれたかのように動かない。
「置いてくわよ!」
 それなら、それでいい。
 自暴自棄だとわかっていて、そう思 う。
 あの人のそばに私がいない場所なんて、行きたくない。
 一張羅の晴れ着。長い袖が邪魔だ。
 切ってしまいたい。そうしたら、それは私が誰かのものになったと言うこと。
 ……彼のためなら、いくらでも切れたのに。
 実際は一度しか袖なんて切り詰められないのに。
 これから先、そんなことのできる人が現れるなんて、思えない。
「もう! お母さん行くからね!」
 諦めと怒りの混じった母の声が鼓膜に痺れを残した。
 玄関に向かう足音。
 私の視線は揺るがない。
 ひたと焦点を結んだ先には、秋を迎え気も早く枯れ始めた庭の草花。
 今の気持ちと似ている。そう思う。
 詮ないことだが、どうしようもない。
 思い出のあの花が枯れたのを見た時と、今の気持ちは、 きっと同じだ。
 カツン、と母の靴の音。
 母も着物のはずだから、下駄を取り出すのだろ う。
 バタン、と靴箱の開き戸が開く音に重ねて。
 ピーンポーン……
 間抜けた音で、玄関に来客を知らせるチャイム。
 母が愛想良く出迎え、一言二言言葉を交わし、扉は閉められた。
 私はその間も、特に何も思わず庭をぼんやり眺めていた。
 あの懐かしい淡い紅色を見るともなしに探しながら。

「はい。あんた宛て」

 そのまま出ていったかに思われた母が、戻ってきて私に向かって何かを差し出し言った。
 それは脳裏に描いていた理想にはほど遠い、小さなブーケ。
 探し ていた思い出の花が、そこにあった。
 優しく揺れる、日本のしとやかな女性の名を持つ淡い紅色の花。
 じわり、涙がにじんだ。
 添えられた白い花の名は知らない。けれどこの紅色は、思い出のまま。
 花束の中には、埋もれるようにカードを見付けた。

『約束、守れなくてごめん。幸せになってくれるよう、祈ってます。』

 馬鹿だ、と思わず言ってしまう。
 そうして思い出す。人生最悪の日。
 けれど今日は私がこの世に生を受けた日。
 私は、結婚できる年を迎えた。
 けれど約束は守られなくて、あなたは謝る。
「こっちのセリフだっての」
 花束を胸に立ち上がる。
「お母さん、私も行く」
 ギリギリよ! と母が言うのに、裾を乱さないよう苦心して玄関を急ぐ。
 花束はダイニングテーブルに置かれ、秋気含む風に吹かれている。
 それは、秋風に揺れる撫子。
 強く気高く、優しい女性の花。
 後ろ姿を残し、言葉を届けに、生きて輝く花は行く。

 祝いの日に。幸せを祈る言葉を届けるために。

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