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金魚草

*注意
着物の着方についてのお話ですが、着付けの専門家ではありません。そういった解釈、意図を持ってのお話でないことをご承知おきください。

「あんなはしたない着こなし、ようできたことだこと」
 毒を含んだ声と言葉に、立ちすくんだ。聞えよがしの悪態は、きっと届いてしまったことだろう。
 声の主はすぐ隣に立っていて、怒気をはらんで不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。思わず袖を引くと、なに、と強い声が自分に向けられた。
 マイナスの気持ちを自分に向けられるのは正直避けたかったが、往来で道行く人々に不快な気持ちをまき散らすのも申し訳ない。当の本人は気にしていないだろうが、注目を浴びたり、強い視線が向けられるのは勘弁してほしい。
「おばあちゃん、聞こえるよ」
 遠回しに、そうっと苦言を呈したつもりだった。本当はこんな言い方ではなく、もっとちゃんと止めたいと思っているが、うまい言い回しが思いつかない。
 孫の言葉に、祖母は眉をきっと吊り上げた。あ、まずいなと気づいた頃には遅かった。
「何言ってるの! 聞こえるように言ってんのよ!」
 あんな基本のキの字も知らないような着付けして、恥ずかしくないのかしら、とまくし立てる祖母はもう、止まることを知らなかった。
 祖母はもともと自分の気持ちを隠す気もなかっただろうし、そもそも自分が正しさを確信しているものだから一歩も引く気がない。なんなら周りにいる全員が自分と同じことを考えていると思い込んでいる。そんな中で隣に立つ孫が同意の言葉もなく水を差すような言葉をかけてくるものだから気に入らないのは当然だ。火のついた祖母に油を注いだのは自分なのは間違いなく、もはやここまで興奮した彼女を止める術は持っていない。この祖母に比べて、自分はかなり気が弱いほうの部類なのだ。
 せめて声を小さくしてほしい。ああほら、おばあちゃんの言ってることを聞き流してくれそうだったのに、お姉さんたちこっち見てる。ごめんなさい、嫌な気持ちにさせてごめんなさい。
「着物警察うっざいわー。自分たちばっかり正しいと思ってんじゃねーよ、老害」
「ねー、人のこと悪口、公衆の面前ででかいツラしてでかい声で言ってるほうが恥ずかしいっての」
 悪態をつかれた立場の彼女たちは、捨て台詞を吐いて、それでも最後は雨上がりの空みたいに明るい声でけらけら笑いながら去っていった。ぴんと背筋を伸ばした様は堂々としていて、祖母の言葉など目の前に石コロがあったくらいにしか思っていないのだろう。
「まったく、近頃の子は着物の着方も口の利き方も知らなくてまったく腹立たしいわ! 生意気なことばかり言って。どんなしつけをされてきてるんだか!」
 興奮冷めやらぬ祖母は引き続きまくし立て続けていて、その場から去るのにずいぶんと苦労した。本当は捨て台詞を吐いた少女たちを捕まえて説教してやりたいと思っていただろうが、彼女たちは浴衣にサンダルと動きやすい恰好で軽やかに去って行ってしまったし、対して祖母は草履に腰痛持ちというハンデがあるため、とてもじゃないが彼女らに追いつくことなどできやしない。
 追いかけろくらいは言われるかと思ったが、その前に「時間に遅れるよ」とささやいてなんとかなだめられたのは、このやり取りの中で一番の功績だっただろう。本当はもっとうまく、彼女たちに祖母の悪態を聞かせることもなく、祖母を怒らせることなく事態の収拾をしたかったところだけれど。
 祖母を急き立てて用向きの場所へと足を向けながら、ふと浴衣の少女たちが去っていった道を振り返り、その姿を思い返す。
 いいな、と思った。
 祖母も自分も、仕立ての良いきものを着て、着付けはきちんとしているのにひどくみすぼらしく感じた。彼女たちは手頃な価格の化繊の浴衣に足を出してサンダルを履いて、作り付けの帯をしているのに、とても立派に見えた。
 うらやましいなと思った。彼女たちは、自由で、自分に自信があって、素敵だと、可愛いと思ったものを着ているのだろう。
 正しいものだけが素晴らしいのだと、その正しさの檻の中でしか生きられない息苦しさから抜け出したいな、と彼女たちの背中に憧れを感じた。

「あらまぁそんなことがあったんですねぇ」
「本当にまぁ、最近は正しい着方も知らずにはしたなくて下品な着付けをしている人が増えて恥ずかしいわ!」
 祖母は出向いた先まで怒りを引きずっていたのだろう。出会った人にすぐさま自分が目の当たりにした出来事を憤懣やるかたなしといわんばかりの勢いでまくしたて、恥ずかしい、と大きな声で切って捨てた。
 隣に座る孫が小さくなっているのにも気づかず、この場でも正しいことを言っていると信じ切っている祖母は、周りからどう思われているのだろうと考えずにはいられない。孫には優しい祖母だけれど、思い込みが激しく正しいと思ったことは譲らないところは大好きな祖母であっても、嫌だなと思うところだった。
「まぁねぇ。おっしゃることはよくわかりますよ」
 ほら、困ったような返事だ。
 だが、続いた言葉は思わず顔を上げてしまうほどに引き付けられるものだった。
「着物は美しいものですよ。今日の着こなし、とっても素敵です。でもね、正しさを押し付けるのは、少し違うんじゃないでしょうか。相手を否定して貶めて、自分の正しさを証明して、上に立つのは、少々美しくないかもしれませんね」
 礼儀も忘れて声の主を見つめていると、視線に気づいたのかこちらに向かってにこりとほほえみ、こっそりウインクまでくれた。
 祖母は話が気に入らなかったのか言いつのろうとする気配がしたが、それを制して孫が呼ばれてしまうとすごすごと椅子に掛けなおした。
「ちょっと失礼。ほら、この帯も、きちんとした形だとこうですがね」
 あっという間にほどかれた帯は、同じくあっという間に結び直されていた。
「聞いたお話と同じような感じにしてみましたけれど、どうかしら。これでも下品で恥ずかしい?」
 祖母は何も言わなかった。孫が結び直された帯に、さきほど自分がこき下ろしていた素材を使っていたからだ。古風な結び目から、大きく「今風」と称されるだろう形になっている。
「基本はあります。それを守ることは大事です。でも、それを知らないからということを罪と断罪するべきではないかなと、私は思うのですよ」
 テーブルをはさんで祖母の前に腰掛けた彼女は、祖母の着付けの師範にあたる人だ。彼女こそ自分の味方であると思っていただろうに、ぐうの音も出ないほどに諭されている。
 立ったまま呆然としていると、師範においでと呼ばれて隣に立たされた。
「どう、この帯、嫌い?」
「……いえ! とても素敵です」
「みっともないと思う?」
「全然!」
 祖母はとうとううなだれてしまった。少しだけ、可哀想かもしれないと思う。そして、少しだけ、こういう叱り方もあるんだなという勉強になったなと思ってしまったが、口にはしなかった。
 くるりとまわると、袖とともに帯が遅れて揺れるのがわかる。まるで金魚のひれのようだ。
 楽しくなって動いていると、ひらりひらりと揺れる様を見ていた祖母が、ぽつりと言った。
「今度、私もその結び方、してあげるわね」
 お願いね、と笑って答えると、やっと祖母は笑い返してくれた。

金魚草
1月16日、4月15日、7月2日、7月10日誕生花
花言葉は「おしゃべり」「でしゃばり」「おせっかい」「推測ではやはりNO」


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