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支子

*注意
このお話には精神疾患、残酷事件の描写があります。

 姉の様子がおかしくなったのは、春を少し過ぎたくらいだった。
 よく笑う、明るく優しい姉がふさぎがちになり、言葉少なになった。いつしか部屋に閉じ籠るようになった。心配して声をかければ怒鳴られてしまうことさえしばしばあった。
 部屋に籠ったままになれば当然食事の回数、量が少なくなり、姉はみるみるうちに痩せ細っていく。家族は皆心配し、戸惑い、あらゆる策を講じてみたが、姉に良い影響をもたらしたとは言えなかった。
 いつしか春は過ぎ、初夏の、暑さを感じ始めた日。
 支子が甘く香る、夕暮れの中。
「お姉ちゃん……?」
 セミロングの髪の向こうから、姉が私を見た。
 風呂と食事、排泄をのぞいて部屋から出るのも今は珍しくなった姉が、居間のソファに座っていたので、思わず声をかけた。
 帰宅したばかりの私は制服姿で、部活が早く終わったため、外に働きに出ている母より早く着いてしまったのだ。
「おかえり」
 ほんの少しだけ、口許を歪めて姉は言った。
 外に出ない姉は病的なほどの色の白さを取り戻した。
 透明感のある瑞々しい肌と赤みを帯びた唇。頬は薔薇色で、目は大きく光を閉じ込めてきらめいていた。
「た、ただいま……」
 どうして、という問いを私はすんでで飲み込んだ。
 ――どうして、そんなに綺麗になっているの……?
 浮かべた笑みも、肌の白さも異様なほどなのに、戦慄を覚えるのはその異様さではなく、美しさなのだ。
 有り得ない。姉は、外には出ておらず、部屋に閉じ籠っていたのだから。
 そして、恐怖を覚えた。
 口許は確かにゆるみ、笑みを浮かべて妹に声をかけたというのに、姉は壮絶な瞳で私を睨みつけているように見えたのだ。
 すぐに逸らされた視線は私を映すことはなく、光の乱反射とダラダラと流れる会話、音を発するつけっぱなしのテレビに注がれていた。
「今日は、具合がいいの?」
 いつまでも居間の入り口で立ち止まっているわけにもいかず、私はそろりと居間を通り、ダイニング・ルームの椅子の一つに腰かけた。
 居間とダイニング・ルーム、キッチンは続き部屋となっており、ソファに座る姉の背もよく見える。なんとなく、姉の隣に座りたくないような、座ってはいけないような気がしたのだ。私の語りかけに姉は答えず、テレビをじっと見つめていた。
 「まだかしら」と声を出さずつぶやくのを、黙って姉を観察していた私の耳はとらえた。
 何を待っているのかと、思わずテレビに食いいる、その美しい横顔をうかがうと。
 姉は期待に満ちた表情で、テレビを穴が空くほどの熱心さで見つめていた。
「まだかしら」
 再度同じ言葉を聞いた瞬間。
 テレビの画面が切り替わった。
「ここで臨時ニ ュースが入りましたので、番組内容を変更してお届けします」
 バラエティ番組の再放送を行っていたテレビの画面が切り替わり、テレビ局のアナウンス室のような画面に変わった。
 画面の中央に座っているのは女性だった。夕方と夜にニュースを読んでいる、今人気上昇中の女性アナウンサーだ。
 彼女の顔は、青ざめていた。ニュースが書いてあると思われる紙を握る手は、カタカタと小さく震えている。
「ニュースを、お伝えします」
 かすれた声が、ニュースを読みあげた。
 その内容は、ひどいものだった。
 途中でアナウンサーは口許を抑え画面上から消え、代わりにガッシリとした体つきの男性アナウンサーが画面中央に立ち、悲痛な表情で口を開いた。
「犯人は、まだ見付かっていません。警察は全力をあげて捜査中です。……被害者の、ご冥福をお祈りいたします」
 その言葉を最後に臨時ニュースは終了し、気付けば放送途中で止まっていたバラエティ番組が再開していた。
 内容の凄惨さに、途中から言葉は耳に届かず、ただ茫然と画面を眺めていた。
「お姉ちゃん……?」
 ぷつ、とテレビの画面が消えた。リモコンを手にした姉が、テレビを消したのだ。
「お姉ちゃん」
「……」
 姉はこちらを見ることなく、ふらりと立ち上がると、居間から出ようとしていた。
「お姉ちゃん!」
 ぴたり。
 姉の足が止まった。
「なに」
 不機嫌そうな声音と裏腹に、その表情は微笑を浮かべていた。
 それは、先程私が話しかけたのとは、全く逆で。
「お姉ちゃん。どうしたの」
 どうして笑っているの。どうしてそんなに嬉しそうなの?
 続けられなかった問いに、姉は首をかしげて笑みを深くすると、自室へと戻っていった。
「あんたには、わからないわ」
 その言葉と、聞こえなかったつぶやきを最後に、私は姉と話すことは出来なくなった。 
 永遠に。

 死体。
 人が死んだ状態の体。もしくは動物の死骸。その体。
 私の家の近くで、惨殺死体が見つかった、とニュースは言っていた。
 アナウンサーが途中で退席してしまうほどに、遺体の損傷は激しく、身元が明らかになるのがずいぶんと遅れた。
 そして、不可解な事がいくつも報じられた。
 身元がわからないほどに遺体は痛めつけられていたにも関らず、怨恨の線が全く浮かび上がらなかったこと。遺体の一部が欠けていたこと。
 出かけるはずのない時間が、死亡推定時間であったこと。
 遺体の身元は、遺体発見現場近くに住む男性。24歳。穏やかで思慮深く、近所の評価も悪くはなく、真面目で謙虚、真摯な態度を取る青年と評判の人物だった。
 そして、姉の恋人だった。ただし、姉が外に出なくなってからは付き合いがなくなったのか、姿を見ることもなくなっていたが。
 考えればおかしかった。
 あの優しい人が、簡単に姉を裏切るはずがないのに。
 彼の欠けた体の一部は、左手の薬指。
 不思議なほどに綺麗な切断面は、研究者の興味を引き寄せ、報道番組の他、不思議な現象を取り扱うバラエティでもずいぶん取り上げられた。
 姉が、彼の恋人だったということで報道陣は家に押しかけ、外出すると家族である私たちも追いかけられたりもした我が家だったが、それどころではなくなっていたため、当時の記憶はあまり残っていない。
 あの臨時放送の後、私に笑みかけた夜から。姉は姿を消したのだ。
 部屋に閉じこもっていたはずの姉は、いつの間にか外に出かけ、そのまま帰らぬ人になった。
 ただし、姉はすぐに見つかった。
 恋人だった男の、遺体発見現場で。横たわって空を見上げて、幸せそうに微笑んで、常世の国へと旅立っていた。
 姉の恋人だった男のそばで自ら死ぬことを選んだのか、否か。
 警察は、姉の死を「自殺」と断定した。不安定な時期に恋人の訃報を聞き、精神の崩壊に拍車をかけたのだろうと判断し、事件性を否定して捜査を終えた。
 悲しい出来事は、私を含め家族を随分と苦しめ、街を騒がせた。それでも時は過ぎていき、ゆっくりと溶けていくように、忘れ去られていった。
 姉の恋人だった男を殺害した犯人は、いまだに見つかっていない。
 何年も何年も時は過ぎ、私は学生ではなくなり、就職し、伴侶を得て住み慣れた街を離れることになった。
「それは何?」
 私が眺める、小さな小瓶を覗き込み、私の夫は尋ねる。
「大したものじゃないわ。きっとあなたにとってはどうでもいいものだもの」
 私は微笑む。
 小瓶は紫外線避けのために濃い青紫色に色づけされており、中身の影さえ映らない。
 かたむけると、小さくカサリと音がした。
「そうかい? 気になるけれど……」
「開けられないの。私にも。でも、姉の形見だから……」
 夫はそれで引き下がった。
 私は小瓶を棚にしまい、寝台に腰掛ける。大きくなった私のお腹を優しく撫でて、夫は微笑んだ。
 あの凄惨な事件から何年も経ち、私は今の夫となる男性に出会い、結婚し、命を宿した。
 新たな命は未来へ続く明るいきっかけのひとつだ。私は今、それを心待ちにしている。
 それでもたまに、暗い過去を思い出して棚の中にしまいこんだ小瓶を手に取り、眺めずにはいられない。
 あの小瓶は、本当に姉の形見。
 姉が痛ましい姿となって見つかった後、部屋を片付けている時に、見つけたもの。思わず私はそれを手に取り、隠していた。
 そして今も、持っている。
 姉の恋人を殺害した犯人が見つかった、という話は聞こえてこない。あと数年もすれば時効を迎えるのだ、と年月が数字となって脳裏をよぎった。
 一生、犯人は見つからないのだろうと私は思う。
 真実は誰も知らないのだ。きっと明るみには出ない。
 姉は、ニュースを待っていた。「まだかしら」と心待ちにしてテレビを食い入るように見つめ、臨時のニュースを眺めた後に満足そうに部屋を出て、そうして。
 考えるうち、ずん、と頭が重くなる。今の精神状態は、お腹の子にもよくない。止めようとも、ふと思えば思考は止まらない。
 姉には無理なはずだ。何年もひきこもっていた姉。姉とは会わなくなったはずの恋人。
 姉の手であの事件をやり遂げるには、体つきも華奢すぎで、力も足りなかったはず。色々と不都合な点も多く、証拠もなく、動機もなく。
 彼と姉のつながりは断ち切れていた。そのはずだ。
 けれど、二人が何を思っていたのかはわからない。もう聞くこともできない。
「あら……支子の香り」
 ふわりと漂ってきた香りに私は顔を上げ、窓辺を見る。
 窓から吹き込んでくる風は、支子の甘い香りを運んできた。
 何の根拠もないのに、私は、姉が彼を看取ったのだと、なぜか確信していた。
 そして、小瓶の中身が、彼の欠けた一部だということにも確信があった。
『あんたには、わからないわ』
 最後の夏の日、凄絶な瞳で姉は私に言った。
 姉のこの言葉の続きを、私は知らない。
 それでも、私は知っている。
 姉の純粋なまでの思いを。姉が信じて行ってきた全てを。
 小瓶は何も語らないけれど、その姿が語るものが、私には見える気がした。
「死んだ者は、『クチナシ』ですものね……」
 私はつぶやく。
 口を開かず実を結ぶ、あの純粋な白を映した花は、姉の姿に似ている、と思った。

支子(梔子)
5月6日、6月7日、6月30日、7月7日誕生花
花言葉は「とても幸せです」「喜びを歓ぶ」「洗練」「優雅」

別の形での梔子はこちら(こちらは優しいお話)


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