見出し画像

旅立ちの前夜に

 これは、ある女の手記。その一節。

 その日のために、特別な何かを探しておりました。
 遠くへと旅立つ可愛いあの子に、何かをしてあげたいと、何かせねばなるまいと探しておりました。
 何日も前から考えていたというのになにも思いつくことができず、いよいよその日は目の前に迫るものの、夜更けになっても思いつきません。
 あの子の旅立ちの餞となるような、ありきたりなものではない素晴らしいものをあげたいと思ったのに。見つけることができないまま、とっぷりと日は暮れ、細い三日月が天空をゆったりと漂っていきます。
 障子戸の向こうから外を眺め、月の位置から時を推し量り。思わずため息が漏れました。
 あの子に特別なものをと考えた日から数えると、ずいぶんと時間があったはずなのに、気づけば旅立ちの時までは残りわずかです。
 なのに、ああ、なんとふがいないことでしょう。いっそのことあの空に浮かぶ月を捕まえてあの子にあげられたらと思うほどには、なにも思いつかないのです。
 さわりと揺れる風に誘われるがまま、表にでると、肌を刺すような寒さが身を包みました。
 まだ春は遠い。そう告げるような空気に目を細めながら息を吐くと、白いもやとなって空に消えていきます。
 冬の空気は驚くほどに澄んでいて、記憶の通りに美しい星々が輝いていました。煌々と輝く月の周りにある星は見づらくもありましたが、少し離れた場所では誇らしげに輝いており、その様はとても美しく感じました。
 どうか、と思い浮かんだ願いを心の中でつぶやき、それを託すに相応しい贈り物をと改めて周りを見渡します。小さな庭は、あの子と共に育ってきた場所。そこかしこに面影を見い出すきっかけが散らばっていてじんわりと心が温かくなります。
 あの大きな石に登るのだと駄々をこねた春。けれど、冬には小さな手と足を懸命に使って登り切り、自慢げに笑っておりました。池をのぞいて水中の鯉に驚き、足を滑らせ落ちて泣く夏もありました。秋には落ちた銀杏を一緒に拾い、煎っておやつにしたことも。いくつもの季節が過ぎていく中で、あの子は大きく立派になりました。そしていよいよ旅立つのです。
 鼻の奥がつんと痛み、悲しいのだなと感じます。思わず上げた視線に飛び込んできた色はなんとも目に鮮やかで、ああ、これを贈り物にしようと決めたのでした。
 常緑の緑、鮮やかな赤。
 手に取り指先で確かめ、それを収めます。
 あの子にあげる贈り物。
 口の端には思わず笑みが滲みました。

 翌朝、あの子は玄関で神妙な顔をして頭を下げました。
 今日まで大切に育ててくれてありがとうございます。行って参ります。
 上げられた顔には緊張と、未来への期待が満ちておりました。握手を交わし、準備していた贈り物を手渡します。
 あの子は、たいそう驚いて言いました。なぜこれを、と。
 託した願いを、これが叶えてくれると思ったから。あなたを見守り育んでくれた庭で咲いた花のをひとつ持って行ってほしい、と告げました。
 渡した手の中、山茶花の花を愛おしそうに眺め、胸に抱き、あの子は改めて行って参りますと言いました。
 身を翻した背中の頼もしいこと、思わずこみ上げた涙をこらえ、じっと見守っているとあの子が旅立つ時がいよいよ訪れました。
 目を細め、その背中を見送ります。開けた扉の向こうは明るかったのです。よく晴れ渡った青い空でまばゆく太陽が輝いておりました。
 まるで、あの子の旅立ちを祝うかのように。

 あの子が幸せでありますように。どうか困難に打ち克てますように。

 祈り、去る背中を見送りました。

テーマ「新しい門出」
一文「扉の向こうは明るかった。」
(いつかのタイミングで募集したお題のお話)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?