菊華

 月を見ると、切なくなる。胸が締め付けられるような感覚で、息がしづらい。いま、自分が息を吸おうとしているのか、吐けば良いのか、戸惑ってしまう。
 なぜか、などということはわからない。
 秋は、空気が澄んできて星や月がはっきりと見える。その光は、紺色の夜空に飾りをまいたかのように、夜空に映えてきらきらしい。
 でも、それを見ようともせずに頭から布団を被って涙をこぼさないように目をぎゅっとつぶって眠ろうとする。
 嫌なものから逃れようとする幼子みたいに。
 けれど安らかな眠りは中々降りては来ない。
 やっとの思いで眠りを得た後、まぶたの裏、心に描かれたのは、真珠色の月と、その下で何重もの花びらを持った凜と咲く気高い花。
 そして花のそばに立つ、振り向いてはくれない人の後姿。

 現実よりもなお苦しい夢を見た。
 こんなことならば、眠らなければ良かったと思うほどに。
 我慢していた涙が、目の端に一筋だけこぼれる。

「着せ綿?」
 古典の授業でのこと。その余った残り時間に、教師が小話として不意に生徒に向けて言ったのだ。
 「着せ綿って知ってる?」と。
 もちろん私は知らない。たぶん古典に関係があるのだろう、くらいに思うだけだ。
「秋の・・・そうね、重陽の節句っていうのが長月。つまり九月の九日にあるのよ。明日のことね。前日から花に綿を被せておいて菊の花の夜露と朝露を吸わせて重陽の節句の朝にその綿で顔をぬぐうと『老い』がぬぐえるっていう催しが平安の時代にあったの」
 優しい、落ち着いた声で女教師がゆっくりと話す。
 知っているのか、頷いている女子が見える。揶揄するように隣の生徒が手を上げていった。
「それって皺取りってことですか~?」
 くすくす、と笑いが起こった。
 綺麗に表しているけど、結局は今で言う『皺取り』になってしまうんだろう。私は納得した。
「そうねぇ。女の人、主に貴族の女性がやってたみたいね。こらそこ、笑わない。あなただってもう少ししたら美顔クリームとか塗ることになるのよ?」
 笑いをこらえた声色で女教師は注意をする。教室はどっと笑いが起こった。
 そこでチャイムが鳴り、話はそこでおしまいになったのだが、その女教師は最後にポツリとつぶやいた。
「まぁ昔は貴族の恋も大変だったらしいし……それで、思うところもぬぐいたかったのかしらね?」
 その言葉は、私の胸にずん、と重く響いた。

 報われない思い。

 それを隠した言葉で言い表された気がした。
 どうしようもないほど相手を思いながら、決して遂げられることはない。
『あの人は私をもてあそんだだけ。遊びの恋だった』
 泣く声が聞こえるような気がする。私は相手と触れ合うことさえ出来ないけれど、思いはわかる気がした。
「あら、お帰りなさい」
 母親が笑顔で迎えてくれる。
「お母さん、菊ってうちにある?」
 私はカバンを部屋に放り込んで制服から着替え、居間のソファに座る母に尋ねる。
 母は一瞬虚をつかれたというような顔をしたが、すぐに笑顔に戻って
「なに、急に。着せ綿でもするの?」
「あ、知ってたんだ」
 もちろん、と返る声。
「やってみよっかなって思って……今日学校で聞いたの。明日重陽の節句なんでしょ?」
 母は無言で答えてあっち、と庭を示した。笑いを含んだ優しい声で「お母さんにも分けてね」と言う。母は文字通り「皺取り」に使うつもりのようだ。
 わかった、とうなずいて裁縫箱から綿を取り出して庭へと向かう。
 盛りとばかりにはいかないけれど、チラホラと綺麗な、夏の花とはまた違った「奥ゆかしい」と表現されるような落ち着いた色を見せた菊の花たちが私を迎える。
 優しい黄色と、花弁の奥側に見え隠れする紅色。
 真っ白のものや少し黒ずんで見える花もある。
 その一つ一つをそっと綿でくるんでいく。
 明日の朝、その冷たい綿を顔を当てて、想いをぬぐってみよう。
 全て消えてなくならなくてもいい。
 少しでも、楽になれるのなら。露がその想いを優しく洗ってくれるのなら。
 夢をみることも、苦痛ではなくなるかもしれない。
 この想いを抱くことにも、少し自信が持てるようになるかもしれない。
 ぼんやりと綿に隠された花の色に、想いを隠すことに対する後めたい悲しさを癒してもらっているような気がした。

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