金木犀

「むせ返るような、匂いが嫌い」

 その言葉に、何も返すことができなかった。
 祈りの言葉は今も届かず、空に彷徨っている。
 きっと。―――

 今年も秋は巡ってきて、金木犀の華はチラチラと舞う花びらよりも その薫りを誇るように強く振りまいている。
 いつのまにか人の背丈ほどの大きさになって、枝葉を広げたその木を見上げて、
「どうして、こんなに匂いが強いんだろう」
 文句のように言葉がこぼれ落ちた。
 好き、の部類に入る華であったが、いかんせん匂いがきつすぎる。どうして好きなのかと問われても、答えは返せないが。
 しかも、風が吹けば匂いと共に白い何かが降ってくる。
 遠くからはよいが、距離が近ければ近いほど敬遠される。
 見上げたまま、目を閉じて大きく息を吸った。胸いっぱいに甘く深い香りが広がる。
「せっかく綺麗で、小さな可愛い花なのに」
 一言漏らして目を開ける。
 そのまま、言葉もなく固まった。
「!?」
 驚きのあまり、声は出なかった。
 目の前に広がるのは大草原。そばにあるのは、同じ金木犀の花をつけた木。
 そしてもう一人。
「どうか、どうか私の願いを叶えてください」
 知らない顔だった。膝が汚れるのもかまわず、座り込んで金木犀に向かって手を合わせてぶつぶつとつぶやいている。
 一心に祈りを捧げるその姿が誰かにダブった。
 あれは、と頭よりも先に心が思い出す。
 自分も、祈っていた。幼き日、満開の金木犀の花の下、願いを叶えてほしいと祈っていた。

「早く病気が治りますよーに」
 何もかもが真っ白に統一された病室の中、一人の少年が小さな手のひらを合わせて願い事を唱えていた。
 祈る先は窓の向こう、病院の中庭に植えられた金木犀。
「金木犀にお願い事をすると、叶うのよ」
 そう言ったのは確か、自分の母親だった。
 だから、ひたすら一途に願っていた。

『そう、だから君の願いは叶った』

 小さな背中を見つめる自分の耳に、祈るこどもの声ではない声が響いた。
 優しい声だ。慈愛に満ちた、というに相応しい。
 そう。自分はただひたすらに願っていた。「命を脅かす病の快癒」を。
 そして願いは叶い、今ココにいる。
 だから、君の願いも叶うよ、とこどもに思う。
 僕は願ったから。

『祈る力が強ければ強いほど、私の力はあなたたちを助けられる』

 意識の遠くで、優しく微笑む気配がする。
 願う人の思いが強ければ強いほど薫りは深く、強いものになり、力を蓄えてゆく。
 それを信じ、願い、叶ったから。今、自分は生きている。
 金木犀の木の傍に立って。

『私はもとは小さな小さな一本の苗木でした。華もつかない、小さな木。ある日神様が来て、おっしゃった。「お前には人の願いを叶える力がある」。私はそれをとても嬉しく思いました。』

 金木犀の嬉しそうな声が、心へと響いてくる。
 はらはらと、小さな金の花びらが舞い落ちる。

『私は私の所に来て、願いを込める人たちのために力を分け与えていた』

 願いはきっとささやかなことだったのだろう。
 世界を滅ぼすとか、誰かが一番になるとか、そんなことは誰も願わなかった。
 他人の不幸ではなく、自分の小さな幸せを祈るものばかりだったのだろう。
 金木犀の優しい声が、言葉を続ける。

『どうしてかはわからない。みんなきっと、心のどこかで知っていたのでしょう。悪しき願いを聞き届ければ、私は消え去る。願いは叶うけれど、世界は消えると』

 金の花びらをなす木は、万能であり、それ故に世界だった。
 たくさんの願いを叶えた花は、ただそこにあった。優しい願いを聞き続け、叶え続け。
 そして、いつのまにか願いは金木犀には願われなくなっていった。

『私はこのまま忘れ去られてゆくのだろうと思っていました。けれどそれでもいいと、思っていました』

 少しだけ、寂しさを含んだ声が響く。
 花びらが、チラチラと降り注いでくる。小さな花弁はもう匂いを放たない。

 『そして、忘れ去られてどのくらい経ったかわからなくなった時、あなたが願ってくれた。私を忘れないでいてくれた。だから、私はあなたのために願いを叶えることができた。とても、嬉しかった』

 ありがとう、と言われて胸が熱くなる。気づけば木の根元に立ち、花を見上げていた。
 祈りを捧げていたこどもの姿は、消えている。
 そっと手のひらを幹に押し当て、言葉を紡ぐ。

「『ありがとう』はこちらの言葉だ。今まで、願いを叶え続けてくれていたんだね。そして、僕の願いも叶えてくれた」

 言葉は金木犀に届いた。
 ああ、と暖かいため息が聞こえた。金木犀の木が、嬉しそうに揺れる。

『ああ、願いを聞くのも喜びだったけれど、お礼の言葉を聞くのが喜びでもあったのね』

 もう一度聞こえたありがとう。の言葉を最後に、もう声は聞こえなくなっていた。
 目の前に広がるのも、草原ではなく、見慣れた今の世界。
 それでも、幹に触れたままの手のひらから、優しい暖かな思いが伝わってくる。
 願いを叶え続け、時を伝え、その喜びを大切にしながら。
 優しい薫りを携えて、たくさんの花びらがヒラヒラと舞う。
 その身に降る祝福のように。

―――願いが強ければ、その香りもまた濃く
 その身に降る祝福の華となる
 心を強く持って、願え
 されば願い叶えられん―――

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