冬薔薇①

 寒さに耐える花の美しさを、彼は見た事があったろうか。
 一面に降り積もった雪に埋もれる世界の中、凛と誇らしく咲いていたことを、私は忘れない。
 そして、彼に教えたいと思ったことを。
 彼の幸せを、願ったことを。

…   …   …   …   …   …   …   …   …   …   …

 その花は、真冬に一厘だけ、ぽつりと咲いていた。

「そろそろ、外に出ない?」

 何度目だろうか。
 その問いに沈黙で返す。すなわち否と。
 思うように動かない身体にいらついてストレスをためるよりは、ここでじっとしていたほうがいい。
 窓から見る景色はその色を変えてはいても、いつも変わらない。
 今日は晴れていてまぶしいとか、木の葉が色づいているとか。
 それはそれで楽しむことができるのだが、今の景色にはなんの面白みもない。
 昨夜から降り続いた雪が、世界を真っ白に変化させていた。
 しんとして、けれど澄み切った音がかんと響くような。
 その純粋で穢れがないと言っているような光景に、さらにいらつきを覚えた。
 寝返りを打つと、びくりとすくむ人影が視界に入る。

「………出てけよ」

 押し殺した声に、人影は一度口を開きかけたものの、その後荷物を引っつかみばたばたと慌しく消えていった。
 ふぅ、と吐息が漏れた。やっと一人になれた。
 安堵と、開放感。それに、満たされる。

 一人でいたい。俺に誰もかまわないでくれ。

 そう考えるほどに自分が他人を拒絶していることを、自覚はしていた。
 けれど変えようという気も起きず、自分に接触してくる人間はみなうっとうしく感じる。
 コンコン、と扉をノックする音さえも、耳につき神経に障る。

「空いてるよ」

 むしろ来るな。そう念を込めて言うが、動作の主はそれを気にした風もなく堂々と室内に侵入していた。
 主とは、付き合い始めて半年たった、俺の彼女だった。
 お見舞いと称して持ってきたのは菓子詰め。
 きっと本人が食べるつもりで。
 微笑を浮かべ、彼女は座って俺に尋ねた。

「元気?」
「見たとおり、だよ」
「体はね。でも精神は病んでそう」

 ズバズバと言われて口ごもる。

「おばさん、追い出したんだって?」

 告げ口してやがる。あのクソババァ。

「だから?」
「変わった、ね」

 彼女は主語を省略して話すことが癖になっている。その言葉は、その癖がたまたま出たのか、意識して言ったものか。

 ”変わった、ね”

 痛いところを、突かれた気がするのはなぜだろう。

「まぁ、わからなくもないんだけど……人に当たるなんて、最低。みっともないよ」

 怒ってはいないけれど、失望と軽蔑のこもったまなざし。そして言葉。

「……嫌いになった?」
「は? 何、言ってるの?」
「見損なった? って聞いてるの」

 答えろよ、ととげとげしい言葉が口からこぼれる。意識もしないのに次々と彼女へきつい言葉を浴びせてしまう。
 けれど、止めようとは考え付かなかった。ひどいことを言っていると自覚しているのに。

「最低なんだろ? 見捨てりゃいいじゃねぇか。俺はいいよ、別に」

 別れる?
 その一言は、するりと飛び出した。
 彼女の顔が、一気に歪んだ。
 意識した瞬間。鋭い痛みと、目の中に星を見た。

「バカ!」

 目を開くと同時に菓子箱が中身ごと飛んできて額に当たる。かなりすさまじい音がした。
 額も、乱暴に開け閉めされた扉も。
 かなり痛い。
 誰もいなくなった室内に、一人ぼんやりと額と頬とをさする。

「ってぇなぁ………思い切りひっぱたきやがって」

 望んでいた”一人”の時間だと言うのに、それはひどく味気なかった。
 無機質に響く、時計の針が時を刻む音。時折風に窓ががたりときしむ。
 静寂といって差し支えのないほどの音しか存在しない、孤独な場所。
 その音さえも、大きく聞こえるほどの中、一人。

「……………」

 やりきれなさに、ため息が漏れた。
 涙は出ない。
 思い込みかもしれないが、流してしまったら、負けだと思うからだ。
 胸にこみ上げるのは、後悔と、一番聴きたくなかった言葉たち。
 見るともなしに目をやれば、白く染まりきった銀世界。
 穢れのない静かな世界の景色は、ただ広がるばかり。

「……くそっ!」

 立ち上がるのにも苦労するのは、体がなまっているからだと言い聞かせる。
 言うことを聞かない足を叱咤しながら、ようやく窓辺へとたどりつき、白く光る雪の上へ、そろそろと足の先を伸ばす。
 はじめにふかりと沈み、そしてひんやりとした感触。蹴り上げれば、キラキラと光が散った。
 思わぬ発見に夢中になり、しばらく雪を蹴散らかす。
 白と、光と。音はないが。先ほどよりよほど騒がしい空気を、自分が作り出している。
 その中で、ふと見慣れぬ色彩が目に飛び込んだ。
 紅く、ぽつりとそれはたたずんでいた。

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