捨てられる縁あれば拾われる縁あり
「売り切れ……!?」
終業後にヒールで駆けて、たどりついたコスメカウンターで、絶望とともに吐き出した言葉はフロアに悲痛に響いた。カウンター越しで背筋を伸ばして立つBAさんは、眉を下げて「申し訳ありません」と、綺麗なリップを塗った唇で告げて頭を下げる。
「大変な人気をいただきまして、今年のコフレは本日の午前に最後のひとつが売れてしまいました」
「再入荷の予定は……?」
「申し訳ありません、店舗ごとに決められた数のみの販売となっております」
悲痛な声での問いに返る返事は予想通りだった。SNSの宣伝記事にも、公式ホームページにもでかでかと書いてあったのを、しっかりじっくり読み込んではいたのだ。だが、わかっていても聞かずにはいられなかった。奇跡を願わずにはいられなかった。
そして、晴れて望みは潰えた。
「椿、アレ、買えた?」
翌朝、デスクで出勤処理中の椿に、同僚の片倉菫が声をかけてきた。ターン、と音高くエンターキーを押し抜いて、椿は応える。
「……だった」
「ん? なに、そんな良かった?」
「だめ、だった……」
泣きそうな声が出て、うなだれる。その様子に菫はあらら、と口元に手をあてて声をあげた。
「そうかぁ、あれ、前評判からすごかったもんねぇ」
うなだれたまま、うん、と頷くだけで応える。そうなのだ。チラシを見たときに一目惚れして、「絶対欲しい!」と思っていたが、SNSでも話題になっていて、「絶対手に入れる!」と意気込んでいるコメントをたくさん見かけた。
予約受付なし、ネット販売なしの店頭販売のみ、数量限定。となれば、本当は休みを取ってでも買いに行きたかった。だが、発売日は大事な会議が入っていて、とても休める状態ではなかった。死に物狂いで当日の仕事と会議の議事録を仕上げ、一縷の望みをかけて定時上がりして向かった結果は「売り切れ」。予想通りだったがダメージはでかい。
コフレのために仕事をしてお金を稼いでいるのに、お金を稼いだがためにコフレが買えないとは。なんの皮肉だろうか。
「今年最後の、一番の楽しみだったのに……」
きらきらと輝く、赤みが強いのにふっくらと唇を見せてくれる、しかも普段使いにもデートにも使える万能リップ、生え際まできっちり跳ね上げてくれて美しいカーブと色でまつげを彩るパープルのマスカラは、つけると黒目を映えさせてくれるくらいきっちり色がつくもので、しかもどちらも現品サイズで限定カラー。それに加えてミニサイズの新色アイカラーは細かいラメが上品で綺麗な金色とブラウン。さらにブランドで人気のミニサイズパウダーとポーチがついて、現品のリップとマスカラに少し足したお値段で販売されたコフレ。
絶対ぜったいゼッタイに欲しかったのに……とぼそぼそつぶやいていると、菫がよしよし、と頭を撫でてくれた。
「かわいそうに。コーヒーの一杯くらいおごってあげるよ」
それだけじゃ足りない、と結局その日はランチもおごってもらった。友人万歳。ボーナス時期で良かった。
と、大きな悲しみに対して少しの慰めをもらって一日を乗り切ったわけだが、やはり気持ちは落ち込む。望んだ分だけ、期待して頑張った分だけ、比例してその落胆は大きい。
しばらく立ち直れないかも、と思いながらそれでも諦めきれず、昨夕の店舗にふらりと足は向いてしまい、コスメカウンター近くに進んでいく。
「申し訳ありません。今年の『クリスマスコフレ』は売り切れました。再販の予定はございません」と書かれたポスターがカウンターに掲げられているのを目にして、ああやはり、ともう一度うなだれた。
他の店に行こうかとも考えたが、すぐに行けるような場所の販売状況は把握できる限り全滅だ。かといって「売っている」との情報を見つけた次の瞬間には、「最後の一個、ゲットしました!」と写真付きで情報が更新されていく。遠方の店舗近くに住む人に代行を頼もうかと思ったが、転売ヤーもどきにはなりたくないと二の足を踏んでしまう。やはり、ちゃんと自分で手に入れたいと思うくらい、そのコフレは素敵だったのだ。
今年はもう無理だな、ご縁が無かったんだな、と諦めた時だった。
「いらっしゃいませ、今年新発売の新色です」
自社の製品を売り込む、明るい声が耳に届いた。聞こえた方に顔を向けると、店頭に立つBAらしき女性がにこにこと商品を手に持って声かけをしている。店頭に立ち始めたばかりなのだろうか、緊張をはらんだ声で、それでも懸命に頑張っているのが手に取るようにわかった。
気づけば、その声の主に近寄っていた。
「こんばんは、本日発売なんです。お試ししてみませんか?」
こちらに気づいて女性がにっこり笑って商品の色味を見せてくる。若干、欲しかったコフレのリップに似ていたが、少し彩度が低い。
落ち着いた色味は赤と言うよりベージュに見える。アイカラー四色のセット。こちらも金色はあるがブラウンレッドとブラウン、淡いクリームとあまり華やかさはないように見えた。けれど、なぜか惹かれた。
「こちらは、肌の色などに関わらず、お顔を華やかに見せる効果を考えて作られたカラーなんです」
女性が緊張の残る声で説明してくれる。地味な色に見えるが、華やかに見せる、という紹介に心をひかれて試してみることにした。
タッチアップを担当してくれたのも店頭に立っていた女性で、試してみたいと申し出るとそれは嬉しそうに椅子に案内された。販売しているコフレは重ねづけも問題ないと言うことで、メイクを落とさずに試させてもらえることになった。
緊張した立ち姿と声とは裏腹に、女性はよどみのない手つきでアイカラーとリップを塗ってくれた。重ねづけということでアイカラーは四色のうち、二色のみ。淡いクリーム色と、ブラウンレッドが使われた。
「え……」
「わぁ、思っていた通りです。お客様、色が白いからこのお色だとしっかりなじんで綺麗に透明感が出ると思っていたんですよー! ほら、このブラウンレッド、すっごく小さいんですけど青いラメが入ってて、透明感ましましにできるんです」
鏡の中の椿の顔がぱっと輝き始めたのがわかると、同時に気づいた女性がそのからくりを説明してくれる。驚くほどにしっくりとなじんだその色は、まるで内側からじわりとにじみ出るように自然に、しかし存在感のある色彩だった。
「買います」
気づけばそう、口にしていた。色合いを合わせたマスカラも選んでもらって、一緒にお買い上げ。本当に、ボーナス時期さまさま、だ。
「ありがとうございます。楽しんでくださいね」
大切に大切に、壊れ物のように。お会計の済んだコフレとマスカラは自分用だと伝えたにもかかわらず、丁寧にラッピングされて紙袋に入れられ、女性店員から笑顔で渡された。
楽しむ、という言葉にそうか、と気づく。私はコフレが欲しかったんじゃなくて、楽しみたかったんだ。
「これに出会うために、あのコフレが買えなかった、と思えばいいのかしらね」
袋に結びつけられた金色のリボンが揺れて、まるで頷いているように思えた。
まぁ、こういう時もあるよね、と一期一会の縁に感謝をしながら昨日とは逆に、晴れやかな気持ちで椿は店を後にしたのだった。
余談ではあるが、お迎えしたコフレが椿の顔つきと相性がよほど良かったのか、菫の評価も高かった。
「数倍美人さんになった!」
と大げさな褒められ方に言い過ぎでは、と思ったが、その後に不思議なものでちょっとした縁もあったので、クリスマスコフレのおまじないなんてものもあるかも、と椿は思ったのだった。