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文披31題:Day20 摩天楼

 美しい姫、いづこにおわす。白磁の髪に、薄氷の瞳、雪の肌に珊瑚の唇。菩薩の笑みに、琴の音の声、白魚の指に天女の肢体。
 美しい姫は塔におわす。蝶の着物に毬の帯、真珠のかんざし、琵琶の扇。
 高い高い塔のてっぺんに、姫はおわす。数多の富と名声と、愛を積み上げ、高みから見下ろしておわす。
 姫はいづれの宝物、いづれの誉れのものならむ。姫は誰にも手に入れられぬ。姫は孤高の貴きもの。
 高い高い塔のてっぺんに、姫は見下ろし何を待つ。
 姫は獲物を待っている。鋭き牙持ち爪磨き、雅な衣に欲を隠して獲物を欲す。
 姫は鬼。けれど誰にも姫は狩れぬ。姫は誰より強い鬼。京におわす誰よりも、美しく強い女夜叉。

 青の国で、ずいぶん昔から歌われているわらべ歌だ。こどもたちが危険に飛び込まないよう、悪いものを呼び込まないようにと警鐘の意味を持って大人たちが歌って聞かせてきた。
“悪い子は鬼姫に喰われてしまうぞ”
 言い聞かせ、山の塔にいる鬼姫に会いに行こうか、と言うとこどもたちはすぐに居住まいをただしたものだった。
 けれど、ただのわらべ歌ではないことを、京の人々はみな知っている。
 青の国の、王宮の反対側に塔はあった。王宮と塔は互いをにらみ合うように、向き合って建てられている。
 それもそのはず、国がまだ名もない頃に、建国の王と鬼が争っていたという。それぞれの領地を合わせて国とすべく、互いの領地を己がものとすべく戦っていた。
 歌にもあるとおり、女夜叉はとても強かった。たった一人で、のちの青の国王となる男の部下たちをたいそう屠っていた。
 けれどある日、たった一人で戦うことは飽きたと言い、領地はやるから塔は残せと要求してきた。
 さらに、不可侵の誓約を交わすとともに塔へは誰も立ち入らないこと、塔のまわりに木々や湖などを興して、食うに困らないようにすることも要求した。
『そうせぬと、妾はヒトを喰うてしまうかもしれんからのう?』
 艶のある声で笑い、長い爪で書状を書くよう促した。ヒトは書物に残せば約束を違えることはできぬからのう、とくつくつと笑って。
 男はそれを飲んだ。すべて殺しつくす力を持った鬼がもう争わないというのなら、乗らない話はないと思ったのだ。
 かくして誓約は交わされ、鬼は塔の中に姿を消した。
『妾は塔の上から見ておるよ。そなたらの血を継ぐ子が、妾との誓約を違えぬことを』
 男は鬼の統べていた土地を手に入れ、己の領地と合わせて青の国と名をつけた。そうして、青の国の初代国王の座に就いた。
 鬼との約束を守るため、王は歌を作った。建国の伝説とともに、誰にも歌われるだろうわらべ歌として。
 おとぎ話のように歌われているのが、真実だ。恐ろしい女夜叉の塔には、誰も近づいてはいけないよ、と。大人になるまでいたずらに足を踏み入れないようにと、成人して後は土地を侵さず子につなぐようにと。
 誓約を破れば国はなきものになると思えと、青の国の初代国王は妻にも子にも言い聞かせ、民にも語り継ぐことを願った。
 あわせて塔への出入りを禁じていたが、長い長い時が過ぎてしまえば、その歌と塔には立ち入らないという掟だけが語り継がれることとなった。結果、塔には誰もいないと思われるようになったのは自然なことだろう。
 しかしながら、塔に住まうのは鬼、と謳われたのは誇張ではなく真実だった。
 遥か昔に人の男と領地を争い、塔に引きこもった鬼は、今もひっそりと生きている。青の国の民は知らなかったが、王族だけは知っていた。

「ごきげんよう、銀の夜叉姫」
 昼間においても暗い室内に、階段を昇る靴音が響いた。ついで、若い男の声も。
 はつらつとした、生命の力にあふれた声音だ。落ち着いていて、静かに響く。
「いらっしゃるのでしょう」
 再度の呼びかけに、塔の奥で小さな衣擦れの音が応えた。男は耳聡く聞きつけて音の方へと向かう。
 微かな音だというのに正確に聞き当て、塔の頂上にいくつか設えられた部屋のひとつに向かい、ためらいなく扉を叩く。
 いらえはない。けれど男は気にしなかった。もう一度扉をたたきながら、声をかけた。
「扉、蹴破りますよ」
 笑みを含んだ声に本気を感じ取ったのか、鍵を外す音共に内側から扉が開かれた。
「……なぜ青の国の民がいる。誓約はどうした。国が滅びてもいいのか」
 扉の向こうに、月光を背にして女が立っていた。美しい女だった。歌の通りの姿をした、美しい女夜叉。
 陰鬱であるのにひどく音楽的な響きの声音で女は問い質すが、今度は男が笑みと共に沈黙を返した。薄氷の瞳が不機嫌そうに狭められる。
「相分かった。青の国は今宵で終わりとなるわけだ」
 残念だ。淡く色づいた唇を笑みの形に歪ませて何の感情も乗らない声でうそぶくと、細くたおやかな肢体は男に背を向けた。部屋の中に一つある窓に向かって歩を進める。
 月光の差し込む窓は閉じられていたが、女が手をかざすだけでひとりでに開いた。
「青の国の民は、今宵、月が沈むまでにすべて滅びよう。青の国の王は誓約を違えたのだから!」
 両手を広げ、言い放つ。薄氷の瞳の奥に青い光が灯り、ぎらぎらと輝いた。長い爪が瞳と同じく月光を弾いて光る。
 まるで断罪の女神のように、女夜叉は殺戮を宣言した。誓約を交わしたことにより生まれた国は、誓約を反故したことにより滅びるのだと。
 けれど、その断罪の刃は振り下ろされることはなく、背後にたたずむ男の言葉により完全に止まった。
「誓約はもはや、過去のものなのですよ」
「……なんだと?」
「貴女は知らないのですね。こんなに“よく見える”場所にいるのに。そのためにこの塔に残ることを選んだのに」
 それとも、と笑みが深まる。
「自分が愛した男が、他の女を愛して血をつなぐ姿を見るのが辛くなりましたか?」
 振り返った女夜叉の顔には、表情がなかった。ぎらぎらと輝く青い火を宿した瞳が男を射殺すようににらみつける。
 地を這うような声音で、それでも琴の音が響くように、女は言葉を紡いだ。
「今、なんと言った」
「貴女は青の国の建てた王を愛したのでしょう。だから殺せなかった。領地もどうでもよくなった。だが、鬼だからそばにはいられないし男には妻子がいる。けれど、恋慕がゆえに離れることもできない。だから、“誓約”をもってここに残る言い訳を作った。そうでしょう?」
 女は何も言わない。すらすらと述べる男をにらみつけるだけだ。
「違いますか? 違わないでしょう。だから気づかない。見ていると言ったのに、その双つの眼は何も映していなかった。だから、気づけなかったのですよ」
 誓約はもう、とうに違えられているのですよ、と男は言った。女の瞳に宿った青い火が、揺らいだ。動揺したのだと、男にはわかった。
「どういう意味だ」
「青の王の血筋はもう、途絶えているのですよ」
「そなたは違うのか。あやつにあんなに生き写しだというのに」
「違いますよ。私は傍系です。直系から遠い遠い血をひく一人です。ただ先祖返りと言われればそうかもしれませんが。そして、貴女にさえ生き写しと言われるほどの姿をした私が生まれた意味は、そこにあると思いませんか」
 すなわち、誓約の終わり。破るのではなく、満了、終焉なのだと。
 違う、と女は青ざめて首を振った。そんなはずはない。誓約が違えられるはずはないと、ゆらゆらと髪を揺らして頭を抱える。
 男はそっと近づいて、女の腕を引いた。瞬間、頬に鋭い痛みが走る。女の爪が頬を裂いたのだ。
 触れるな、と女は囁く。触れれば殺す。低く唸るように、絞り出すように男に言う。
 だが、男は退かなかった。頬を裂いた拍子に離れた距離分、詰め寄る。
「殺せませんよ、貴女は。青の国の王が愛したこの国を、貴女は見つめ続けたはずだ。憎しみも悲しみも長い長い時を経て、国をただ慈しむ心に変わったはずだ」
 でなければ、誓約が破られたとわかった時に有無を言わさず実行したはず。男は続けた。
「だから貴女は、この国の最後を見届けなければ。青の国の初代国王の直系の血が絶えるならば、代わりの器を用意しなければ」
 男が手を差し出す。何を言っているのかわからない、と女は首を振る。
「妾はヒトではないのだぞ」
「知っていますよ。美しい女夜叉。けれど、その美しさは国を統べるには十分だ。そして守るのにも、慈しむのも、貴女には十分な力と資格を持っている」
「誰が認めるというのだ」
「私が」
 私が認めますよ、と男は言った。
「過去の誓約を終わらせ、新たな誓約を交わしましょう。青の国に永遠を。貴女が女王となって、その子が継いでいけばいい」
 女は目を見開いた。急速に過去の記憶が脳裏に浮かぶ。あの笑み、あの声音、そしてあの言葉。
「そなたは本当に、あやつではないのか……?」
「さぁ、どなたのことを言っているのかわかりませんが、私は私ですよ。長く永く、歌い謳われてきた女夜叉に恋焦がれた馬鹿な男、それが私です。そして、青の国の終わりと新たな始まりを提案する者です」
 しばらくの沈黙を経て。女夜叉は俯いた白いかんばせを上げて。男の手を取った。
「誓約は終わりではない。変えるのでもない」
 酔狂な男の、馬鹿な遊びに付き合う時間くらいは、誓約の猶予をくれてやろうぞと微笑んで。それが誓約の役割のひとつを果たすならば意味はあると。
「承知つかまつりました」
 恭しくお辞儀をして、男は女夜叉の手を引き塔を降りていく。
 塔におわす姫は、獲物を待っていた。獲物は住まう塔の向こうの、かつて領地を取り合った王。
 けれど、塔にはもう鬼はいない。獲物を手に入れ出ていった。
 朝日が昇り、誰もいなくなった塔の室内を、差し込む光が静かに照らしていた。

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