【SS】屋上

美月は上司に理不尽に怒られている。やけに明るい執務室で、彼女の表情は暗かった。いつもの笑顔は顔の奥へと吸い込まれたように消えて、異様に黒い瞳だけが見開いていた。このオフィスは少々蛍光灯が多すぎる。 彼女は攻撃的な足取りで喫煙所のある屋上へと向かった。普段は吸わない煙草を握りしめて。11月にしてはやけに微温い夜だった。しかし、心地よい夜風とは裏腹に彼女の胸は不快な空気なかたまりのようなもので満たされているようだ。

塩原は決死の形相で歓楽街を走っていた。いや、逃げていたという方が適切かもしれない。 燦然と煌るネオンは額から零れ落ちる汗で滲んで見えているのだろうか。グレイのスーツを汗でびっしょり湿らせた彼は、一体何から逃 げているのか。しばらく見ていると、背後の方からチンピラともヤクザとも分からない怖い人たちが複数人、彼の後を追っているのが分かった。彼は人混みを掻き分け、雑居ビルが立ち並ぶ路地に逃げ込んだ。テンポの狂った呼吸。額には大量の汗を湛えている。塩原は一瞬膝に手をつき、スライムのような唾の塊を汚いコンクリートに吐いた。もはや彼の心臓は正常な脈を打つことを諦めている。そして顔を上げ、無我夢中で適当な雑居ビルの階段を駆け上がった。その目は、まだ死んでいなかった。

啓太は二つのバケツにそれぞれの足を入れて戯けている。右手には缶チューハイが握られていて、友人と酒盛りを楽しんでいる。彼らの顔は情けなく弛んでいて、この世の全ての厳しさを知らないかのような調子だった。どこぞの雑居ビルの屋上を借りて開かれる宴会は、青春の権化である。大学生の啓太は、友達に自分のギャグを見てもらえず拗ねているようだが、酒のせいで気分が悪くなる訳でもなく、黙ってバケツから足を出し、段ボールで作った簡易テーブルの元に戻った。段ボールの上には、コンビニで買ったチーズ鱈やシメ鯖などが置かれている。啓太はとろけた目尻を落として、腰をおろし、水滴が滴る缶チューハイを握りしめて「愛を信じなければ!!」と叫んだ。そして友達たちもそれに賛同して叫んだ。

美月は、屋上の喫煙所で煙草を吸い始めると、久しぶりの煙に肺が驚いたのか咽せた。彼女の務めるオフィスのビルは哀愁の漂う小汚いビルで、周囲にも同じような赤茶けたビルが密集している。ストレス解消のための一服ならいいだろうと、彼女は自分に言い聞かせるように、吐き出した煙を虚空にくゆらせていた。隣のビルの屋上では、 大学生らしき若者たちが「愛だ愛だ」と馬鹿騒ぎをしている。静かに煙草も吸えない世界に彼女は絶望した。艶やかな口元から流れる白い煙は、そよ風にあおられて、彼女の黒い髪に溶け消えた。

塩原は階段を休むことなく7 階まで駆け上がると、屋上につながるドアを蹴り開けた。呼吸は乱れ、汗が目にしみて、世界は滲み、都会の空を覆う僅かばかりの星々なんて彼の目に入るわけがなかった。すぐ後ろには、彼を追いかけてきた集団が迫っていて、彼は追い詰められて、震えながら言葉にならない声を出した。そして、勢いよく後退りをして古びたフェンスに手をかけた瞬間、彼の体はそのままフェンスと共にビルの外に放り出された。彼はねじれの位置に翔んだ。棒高跳びの選手のように背中を美しく反らせて、血走らせた眼は暗い夜空の下でギョロっとしている。彼が最期に見た上下反転の世界は異様なまでに美しかった。そして彼は同時に、向かいのビルから立ちのぼる細い細い煙を見た。

啓太はまだ友人と大学生を謳歌していた。いつまで愛を叫んでいる気なのか。簡易テーブルの横には、誰かがどこかから拾ってきたランプが置かれていて、オレンジ色の光がまるで熱々のホットケーキの上に乗せられたバターのように優しく辺りに広がっていた。そして彼らは騒ぎ散らしていた。そんな時、近くのビルで大きな音がしたことに啓太は気づいた。「今なんか音がしなかった?」なんて聞いたところで場が白けるだけだと思ったのだろう。彼は気にせず夜通し飲み続けた。何処に行くあてもない夜。

空は、見ていた。断片的で、なんの偽りもないリアルを見ていた。


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