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[徒然]「書くこと」は、自分の考えの浅はかさと向き合うこと。過去を後悔すること。

文章を書くということは、苦痛な作業である。誰のための言葉なのか、さえも分かりきりやしない。かねてから、僕は何も考えていなかった。情報を取集し、吸収し、それを適切に使う事にだけ長けているつまらない類の人間だった。だから文章を書くということは、自分の考えの浅さと向き合うことに他ならないのだ。

しかし、村上春樹が自身の経営するジャズ喫茶で夜な夜な「風の歌を聴け」を書き上げたように、僕も夜な夜なキーボードを叩くことは可能だ。それが情けない自分と向き合う時間だということも、凡そ承知している。

それは、自分が言葉の盗人であることに起因している。自分の言葉というものが全くもって無い。豊かな言葉を自分の内側から生み出すことができない。簡単にはできない。言葉の貧困のようだ。語彙力がないというレヴェルの話ではない。しかし、自分の内から発露する肉体的な言葉を持ち合わせていないのだ。


その理由はおそらく圧倒的な貯蓄不足と、脳死状態での怠惰な読書が原因だろう。

僕は幼い頃、読書というものを怠ってきた。DSでポケモンプラチナをやったり、近所の公園で鬼ごっこに勤しんだり、父親のパソコンで巨乳の女性を見るような小学生だった。(性的な画像を検索したまま画面が固まり焦るなんてことは日常茶飯事だった)

だから読書というものには縁がなかったし、興味がなかった。学校での読書週間でも一応本は用意するものの碌に読む気もなかったし、退屈だった。そんな読書嫌いな性格は中学に入ってからも変わらなかった。

しかし高校生になった頃、急に小説を読み出した。それは何故だか忘れたが、確か現代文の模試でかなり悪い点を取り、焦ってどうしようかと迷った挙句、小説を読めば現代文の点数も上がるのではないかという浅はかな考えからだったかもしれない。そうして僕は、部活や勉強の合間に図書館や本屋に足繁く通うことになった。

その頃読んだ本で特に印象に残っているのは、山田詠美の「ぼくは勉強ができない」と乾くるみの「イニシエーション・ラブ」、それから伊坂幸太郎の「砂漠」などであった。(麻雀のスマホゲームに一時期ハマったのも伊坂幸太郎のせいである)

それから僕は、まあまあ読書するようになった。大学に入ってからは新書やビジネス本、心理学の本など、自分が賢くなるための本にも手を出し、普通の大学生に比べればそこそこ本を読んでいたと思う。

それでも問題があった。僕は「読んだ」ということに満足してしまう節があった。本当に情けない話だ。読了しただけで自分が賢くなったと勘違いをしていた。

そのことが、自分が「書く」ということに、情けない気持ちになる大きな要因であった。noteを開き、真っ白な執筆エディター画面と対峙した時、僕の手はイギリスの港にある古びた石像のように動かなくなってしまう。(謎すぎる比喩表現を使おうとする自分も嫌いだ)

書けないことに苦しみ、それでも文章で人気者になりたいという野望を捨てきれない僕は、人の言葉を盗むようになった。誰かのエッセイや小説を読んでは、印象的でウィットに富んだフレーズや言い回しを携帯にメモし、自分が執筆する際に参考にしていた。これは僕の罪の告白だ。

でもそんなことをしたって何も変わらない。素敵な言い回しをパクっているだけでは、根本的な部分は何も変わらないし、自分の軸(そもそも軸なんてものは見当つかないが)がブレるだけだろう。


だから僕はこれからは、自分の言葉で語ろうと思う。自分の言葉で内面を吐露し、自分の言葉で旅の情感を伝え、自分の言葉で世界を愛でようと思う。(ときには、自分の言葉で世界を呪うこともあるかもしれない)

これは僕の決意表明のようなものでもあり、同時に瓶の中に詰められた独り言がネットの大海原に放り出されるだけでもある。つまり捉え方によっては、有意味なものにもなりうるし、無意味なものとして海の塵にもなりうる。

本を考えながら読み、自分の言葉で感想を語り、そしてまた本を読んでは、取り止めもないことをnoteに書き綴る。タイトルは惹きつけるものを意識して、内容は妥協しない。明日はきっと気持ちのいい朝になる。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。(村上春樹「風の歌を聴け」より)

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