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【読書日誌】村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』
希望のない話は好きだ。なんだか聖書を読んでいるような気分になる。(聖書なんて読んだことないのだが)
つまり、絶望的な話は、ときとして「救い」にもなりうるということだ。
『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は、6つの短編から構成されている。
初めの方は、光のない暗い世界を漠然とした不安を抱えながら歩き続けるような、そんな感じ。人間が抱える「内なる廃墟」が滔々と流れるように描かれている。地上から深い闇を覗き込むような短編集なんだ。
でも、最後の話の方になってくると、少しずつ希望の光が微かに見え始める。希望はあるのかもしれない。
最後の短編「蜂蜜パイ」は大好きだ。微かな光が込められたタイトルであることに読んだ後に気づく。
僕はこの完成度の高い村上春樹作品を書評することなんてできない。作家の力作を評論するということは、並大抵のことではない。
だから、僕がどんな読み方をして、何を感じたか。等身大を語っていこうと思う。
この本を読んだときは、12月のクリスマスの時だった。
電車でこの短編集を読んでいると、ふと電車を降りたくなった。理由はない。降りたこともない駅。名前の知らない駅。
僕は電車から降りると、ホームにポツンとあるベンチに腰掛け、再び本を読み始めた。
「アイロンのある風景」を読んでいた。僕はこの話の妙に不思議な内容にひっかかって、何度も読み直した。
この話で村上が伝えたいことはなんだったのか。死ぬために火を熾すとは、どういう気持ちなのか。焚き火を眺めているとどんな気持ちになるのか。
必死に考察した。ジャック・ロンドンの「火を熾す」も読んでみようと思ったほどだ。(結局読んでない)
そしてとうとう、分かりやすい考察はなされなかった。
ただ、「アイロンのある風景」の書き終わりが妙に静かで美しかったな。
そう、感じただけだった。
僕はクリスマスの寒い日に、一人で名前も知らない駅のホームのベンチに座り、悴む手で小説のページをめくったり戻したりしていた。
不可思議なクリスマス。でも僕は意外と満足している。
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