"多様性"って便利な言葉ですね
皆さんお盆休みいかがお過ごしでしょうか。
夏の休日を満喫しているうちにすっかり
お久しぶりの記事になってしまった。
今日はここ数年でよく聞く"多様性"という
言葉について思うことを書いていこうと思う。
というのも、人が多様性という言葉を使う場面は
だいたい決まっているように見える。
『生き方の多様性』を掲げたい時
『美しさへの価値観の多様性』を訴えたい時
こんな話題ではないだろうか。
だが私はこの多様性という言葉が曖昧に、
あまりにも都合良く使われすぎていることに
だいぶ違和感を感じている。
たとえば
『男性器はついていても心は女だ!
だから女子トイレを使わせろ!』
などという正気ではない発言を堂々とする
身も心もしっかり男であろう自称LGBTの方が
多くいるが、これも多様性だからアリなのか?
私ら女性にも、LGBTで本当に女性になるために
手術した人たちに失礼だろ。
こういう発言をする奴はだいたい
女装癖があって性的対象は女性のオジさんなので
当たり前にしっかりトイレも分ける必要がある。
犯罪の匂いしかしないと感じるのは
私だけだろうか。
昨今の多様性という言葉は
今までネガティブに捉えられてきた事実を
「これも、多様性だから!」でまとめられる
便利な魔法の言葉のようだ。
もっと身近な例でいくと
"ずっと独身で生きていくのも良い。
それは生き方の多様性だから。"
"太っていても良い。
多様性こそ美なのだから。"
いろんな出版社やメディア広告で死ぬほど
使われてきた文句である。
こんなのわざわざ多様性という言葉を使わなくても
わかってるだろう。
わざわざ声をあげて、これが正解!みたいな
主張する必要あるか?
(独身がダメとか太っているのがダメとか
そういう話ではない。)
あえてこれも多様性だという風にみんなに
自分たちの立場を認知させて、どうしたいんだ?
本当にそれがいいと思っている人なら、
黙ってそのまま生きていくと思うのだが。
多様性という言葉を乱用して
自分たちの状況を正当化したいのだろうが
逆にそれが本当はマイナスであるという感じに
伝わってきてしまっている。
正直、どれだけ多様性が叫ばれても
人の価値観はそんなに簡単には変わらない。
誰しもが愛して愛されたいという願望があり
その人ときちんと結ばれたい
今よりもっと美しくなりたい
こんなのはいくら時が経っても変わらない、
人の本能的な欲求だ。
『無理して結婚なんかしなくても良い』と言われても
素敵なパートナーに愛されて幸せそうな友人のことは
ずっと羨ましいし
太っていてもいいと言われても
努力しないデブが身体を鍛えた美人に勝てる日は
来ないと、全員がわかっている。
世間では多様性という言葉が広がり
一見、色んな人に優しくなったように見えるだろうが
実際はそんな事はない。
今の自分に本当は納得していないくせに
これも多様性だと自分にも周りにも言い聞かせて
いるタイプの大人が多すぎる。可哀想である。
だから私は、
多様性という曖昧でぬるい言葉に踊らされて
勝手に安心するようなことはしたくない。
世間の人が言う多様性なんかよりも
自分の求める幸せや美しさに対してだけ
正直に、そして貪欲に生きていきたいのだ。
(ちなみにこれは前半で話した犯罪者予備軍の
なんちゃってLGBTのオジサンたちに
言っているのではない。この人たちが一番多様性とは程遠いところにいるので。)
まあ私もこんなことを書いているが、
独身の友人に
『まあずっと独身でいるっているのも
今の多様性な社会ではありだよねー』
などと言われたら
さすがに下手な愛想笑いで護摩化してしまう。
私ももう大人だからな、さすがにな。