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期待を手放した先にあるもの

相手に期待することは関心がある証であり、それこそが愛だ。

その反対に、期待しないことは無関心の証であり、冷酷なこと。

…と、思っていました。昔は。

人はなぜ人に期待してしまうのだろう?

“してしまう”と思っているということは、それをすることによって自分の中になんらかのマイナスな感情が発生している自覚があるからこそ感じることなのだと思います。

「期待、それこそが愛の証だ。」

直接そう言葉にすることはなくても、無意識のうちにそう思っている人はおおいのではないでしょうか。

でも、本当にそうなのでしょうか?

人はなぜ人に期待してしまうのかの、3つの考察

①上下関係の見直し

親から子へ、上司から部下へ、指導者から生徒へ。

期待というものは、チカラの強いものから弱いものへ向かう傾向があります。

しかし、友達、恋人、夫婦など、一見対等に見える関係性の中で起こることもよくある。

そしてそれはたいていの場合、より親密な間柄であるほど起こりやすい。

期待という感情が起こるとき、自分では相手と対等な関係性を築いているつもりでも、実はそこには上下関係が発生しているのだと思います。

そしてどちらか一方が相手をムリヤリ引っ張り上げる、または引きずり下ろそうとしている状態。これが期待の心理的映像なのだと思います。

これでは期待する側もされる側も、お互いに消耗してしまうのが当たり前。

大切なのはまず、そこに上下関係が発生していることを自覚すること。

そして自分の気持ちをよーく探り、相手を見下している感情がどこかにひそんでいないか、あるいは自分をさげすんでいないか、自分が上か下か、どちらの立場にいるのかを認識してみてください。

そして相手との間にセンターを見い出すこと。相手を動かすのではなく、自分がみずからまん中に行くこと。それが対等な関係性を築く上でとても大切なことだと思います。

②肩書をとっぱらう

期待が起こるとき、相手のことを“その人そのもの”として見ているのではなく、子ども、母、部下、生徒、友達、夫、彼氏などなど、期待している側から見たなにかしらの“肩書”として見ている場合がほとんどだと思います。

「子どもなんだから」

「母なんだから」

「夫なんだから」

「妻なんだから」

そしてその言葉の次に来るのは「だからこうするべき。」

そうして、自分の中で常識だと思っている世間一般の枠に当てはめて相手を見ていることがおおいように思います。

自分の中で誰かに期待しているなと感じたら、まずは自分が相手を肩書で見ていないかを考えてみてください。

そして同時に、自分自身のことも肩書で見ていないか、よく自分の心に聞いてみること。

「妻なんだから」

「母なんだから」

「娘なんだから」

だからこうあるべき…と、どこか自分に重石を乗せていませんか?

③承認欲求と自己実現ができてないことへの嫉妬のあらわれ

期待する人とされる人との間には、極端に言うと「自分みたいになってほしい」という気持ちと、「あの人みたいにはなれない」という相反する気持ちが互いに反発し合っているのだと思います。

そこにはきっと、「うらやましい」という感情があるのではないでしょうか。

「わたしはいつもキッチリやっているのに、あの人はいつもマイペースでうらやましい。」

「わたしが果たせなかった夢をあの人は叶えていてうらやましい」

「うらやましい」という感情は、自分に注目してほしい、認めてほしいという気持ちがあるからこそ生まれるものなのだと思います。

いくら自分の中で「もう相手に期待することはやめよう」と誓ってもまた期待してしまうのは、自分が好きなように生きることができていないからなのではないでしょうか。

好きなように生きることへの後ろめたさや不安、リスク、そして自信のなさから、近い関係性の相手を期待というカタチで巻き込もうとしてしまうのではないかと思います。

相手にそれを肩代わりさせるのではなく、あるいはそれを潰そうとするのでもなく、自分自身がやりたいように、好きなように生きればいい。そうすればいつのまにか、相手に期待することなく自分で自分を肯定し、相手のありのままを受け入れることができるようになっているのだと思います。

* * *


期待と信頼の違い

期待という行為は、一見前向きな行為に見えるところがトリッキーだなと思います。

もちろんすべてがダメというわけではなく、政治への期待、スポーツ選手への期待など、プラスに働く期待もたくさんあります。

ただやはり、それがリアルな人間関係間で、こと密接な間柄の期待となると話は別だと思います。

期待する側もされる側も、それが相手への(あるいは相手からの)情がある証であり、絆の証だと思ってしまっていること。

そして関係性が近ければ近いほど遠慮がなくなり、

「相手のために言ってあげてる」

「厳しいことでも言ってあげるのが愛だ」

「こんなこと言えるのはわたしだからこそ」

と、ますますヒートアップしてしまう。

でも実は期待は愛でもなんでもなく、相手を縛ることでありコントロールしようとしていることに他ならないと思います。

まず、そこに気づくこと。

期待を手放した先にあるもの。それは信頼だとわたしは思います。

相手への信頼、そして自分への信頼。

期待と信頼の違い、それは「相手に変化を求める行為」と「相手のありのままを認める行為」の違いです。

期待、つまり「相手に変化を求める行為」は、相手の人間性を否定し、自分も否定する行為。

信頼、つまり「相手のありのままを認める行為」は、相手の中にもともとあるチカラを信じて手放し、同時に自分の可能性を信じること。

期待を手放すことはけして冷酷なことではなく、信じることが愛なのだと思います。

そのためにはまず、自分自身が今日からの行動を少しでも、自分がよろこぶようにしていくことからはじめてみてはどうでしょうか。

おいしいお茶を淹れるでもいいし、お気に入りの服を着るでもいい。

誰に会わなくても自分のために。今日一日を気持ちよくすごせますように♪


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