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ウクライナの芸術家シリーズ

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ロシアの芸術家と思っていた人の大半が,実は現ウクライナの出身だったりして驚いてます。その芸術家が生まれ育った当時はソ連の一部だったりしたわけですが,それにしてもウクライナはロシア…
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#ウクライナ

【ロスティスラフ・ドゥビンスキー, 1923-1997🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ24】

室内楽が好きな人ならみんな知ってるボロディン四重奏団の創始者,ヴァイオリニストのロスティスラフ・ドゥビンスキー(Rostislav Dubinsky, 1923-1997)は旧ソビエト連邦ハリコフ(現ウクライナ)[1]のユダヤ系の家庭の生まれだ。ただし,書籍やサイトによってはキーフ生まれ[2]と説明されていることもあって,どちらが正しいかわからない。 [1] https://ja.findagrave.com/memorial/124812834/rostislav-dub

【アイザック・スターン, 1920-2001🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ23】

20世紀の名ヴァイオリニストの一人アイザック・スターン(Isaac Stern, 1920-2001)は旧ポーランド領クレメネツィ(現ウクライナ)でユダヤ系の家庭に生まれた。ただし、生まれて14ヶ月でアメリカに移住している。 両親はともに音楽家で、スターンが6歳の時にサンクトペテルブルク音楽院出身の母親がピアノを教え始めるが、8歳の時にヴァイオリンに転向してサンフランシスコ音楽院に入学。15歳の時に、ピエール・モントゥーが指揮するサンフランシスコ交響楽団との共演でデビュー。

【ダヴィッド・オイストラフ, 1908-1974🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ22】

20世紀を代表するヴァイオリニストの一人ダヴィッド・オイストラフ(David Fyodorovich Oistrakh, 1908-1974, 写真左)はロシア帝国オデッサ(現ウクライナ)のユダヤ系の商人の家庭に生まれる。5歳の時にピョートル・ストリヤルスキーの元でヴァイオリンとヴィオラの勉強を始め,同門だったナタン・ミルシュタイン(1904-1992, 過去記事はこちら)とも随分仲が良かったらしい。 1927年にモスクワに移り,1934年にはモスクワ音楽院で教職に就く。弟

【シューラ・チェルカスキー,1909-1995🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ21】

名ピアニストのシューラ・チェルカスキー(Shura Cherkassky, 1909-1995)はロシア帝国オデッサ(現ウクライナ)出身のピアニスト。ユダヤ系だったチェルカスキー一家は1917年に起きたロシア革命の時にアメリカに亡命。チェルカスキーは,やはりかなりの腕前のピアニストだった母親からピアノの手ほどきを受けていたが,渡米後にラフマニノフの門戸を叩く。しかし,「腕の姿勢が悪いから,2年間リサイタルやめて練習しなはれ」と言われたらしい。結局,「コンサート? そりゃ,どん

【ナタン・ミルシテイン, 1904-1992🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ20】

20世紀のヴァイオリンの巨匠ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン(Nathan Milstein, 1904(旧暦1903)-1992)はロシア帝国オデッサ(現ウクライナ)生まれ。 音楽には無縁のユダヤ系の中流家庭の生まれだったらしいが,ミルシテインが7才の時,当時11才のヤッシャ・ハイフェッツのコンサートに感動した両親が我が子をヴァイオリニストにしようと習いに行かせたらしい。そのときに習ったのがダヴィド・オイストラフの教師でもあったピョートル・ストリヤルスキー。ストリヤルス

【レジーナ・ホロヴィッツ, 1899-1984🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ19】

レジーナ・ホロヴィッツ(Regina Horowitz, 1899-1984)は,ジトミール(旧制ロシア,現ウクライナ)の生まれ(キーフ生まれと説明しているページもある)。あの,ウラディミール・ホロヴィッツ(以前の記事も見てね)の姉だ。ウラディミールは,「姉の方が自分より演奏がうまい」としばしば語っていたらしい(情報源)。 レジーナは,キエフ音楽院でウラジーミル・プチャルスキーに師事して1919年に卒業。ウラディミールもプチャルスキーに師事していたことがある。 1920年

【ウラディミール・ホロヴィッツ, 1903-1989🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ18】

ピアノ界の伝説の巨匠ウラディミール・ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz, 1903-1989)はロシア帝国キエフ(現ウクライナ, キーフ)生まれ。 ユダヤ系の家庭の生まれで,父親は腕利の電気技師。ドイツのメーカーに電気モーターを卸していた。叔父のアレクサンダーは、スクリャービンの弟子で親友だった。ホロヴィッツが10歳のときにスクリャービンのもとで演奏したら、スクリャービンはホロヴィッツに非常に才能があると両親に言ったらしい。 ホロヴィッツはアマチュアのピアニ

【アレクサンダー・ブライロフスキー, 1896-1976🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ17】

ショパン弾きとして名高いピアニスト,アレクサンダー・ブライロフスキー(Alexander Brailowsky, 1896-1976)はロシア帝国キーフ(現ウクライナ)でユダヤ系の家庭に生まれる。 ピアニストだった父親にピアノを習い,8歳から数多くの巨匠を育てたレシェティツキの門下生だったVladimir Puchalskyにキーフ音楽院で師事。Vladimir Puchalskyは,やはりキーフ生まれのホロヴィッツ(1903-1989)の師匠にもあたる。ただしブライロフス

【ミッシャ・エルマン,1891-1967🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ16】

20世紀初頭に活躍した名ヴァイオリニストのミッシャ・エルマン(Mischa Elman, 1891-1967)はロシア帝国キーフ県タリノエ(現ウクライナ)のユダヤ系家庭の生まれ。 祖父はユダヤの民族音楽家で、ヴァイオリンも弾いていた。当時,音楽家の社会的地位は低かったので、父親はミッシャが音楽家になるのには反対だったらしい。しかし,幼いミッシャにせがまれてミニチュア・ヴァイオリンをあげたら,すぐにいろいろな曲を引き出したらしい。まもなく、ミッシャはオデッサで帝国音楽院に入学

【ミェチスワフ・ホルショフスキ, 1892-1993🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ15】

伝説的ピアニストの一人,ミェチスワフ・ホルショフスキ(Mieczysław Horszowski, 1892-1993)はオーストリア=ハンガリー帝国(現ウクライナ, リヴィウ)で,ユダヤ系の家庭に生まれた。 ホルショフスキは,自身はポーランド出身であると説明しているらしい。リヴィウ付近の国境は頻繁に変わっているが,1919年にポーランド・ウクライナ戦争後,1939年にドイツに占領されるまでの間ポーランド領だった。この期間がちょうど若きホルショフスキの活動の時期重なるので,

【Joseph Schillinger, 1895-1943🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ14】

ヨーゼフ・シリンガー(1895-1943)は旧ロシア帝国のハリコフ政府(現ウクライナ,ハリコフ)生まれの作曲家で音楽理論家。ぇ? 知らない? いや,実は僕も知らなかったのだけど,友人に「憂鬱と官能を教えた学校 — バークリーメソッドによって俯瞰される20世紀商業音楽史」という本が面白いと勧められて読んで初めて知った,現在の音楽界に大きな影響を残した超重要人物だ。 弟子にはジョージ・ガーシュウィン,ベニー・グッドマン,グレン・ミラーといった商業音楽の黎明期に活躍した錚々たる顔

【Benno Moiseiwitsch, 1890-1963🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ13】

名ピアニストのベンノ・モイセイヴィチ(1890-1963)は旧ロシア帝国オデッサ(現ウクライナ)生まれ。 同年に同じ街で生まれたピアニストにフェインベルクがいる。ただ,フェインベルクは4才の時にモスクワに引っ越しているので,接点はなかったのかもしれない。 1904年から1908年までウィーンでテオドール・レシェティツキーに師事する。始めのオーディションで革命のエチュードを弾いたときには,レシェティツキーに,「私なら左足でもっとうまく弾けるよ。この曲には100位の繊細な表現が

【ドン・コサック合唱セルゲイ・ジャーロフ🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ12】

コサック・ダンスの「コサック」はウクライナの南ロシアにあった軍事共同体やそのメンバーを指す。ウクライナの中南部で遊牧民がルーツらしい。その一部は16世紀頃に南ロシアのドン川の下流に移住してドン・コサックと呼ばれるようになる。ドン・コサックはドン・コサック軍をつくり,やがてロシアの非正規軍となる。1917年のロシア革命のときには反革命側(白軍)として活動した。 白軍敗退後,ドン・コサック軍の副官だったセルゲイ・ジャーロフは1921年にトルコの捕虜収容所で主にドン軍のメンバーか

【Sergei Prokofiev, 1891-1953🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ11】

作曲家,ピアニスト,指揮者として活躍したプロコフィエフ(1891-1953)もロシア帝国(現ウクライナ,ドネツク)出身。サンクト・ペテルブルク音楽院でリャードフに和声法と対位法を,リムスキー・コルサコフに管弦楽法を学んでいる。 大御所の紹介はwikipediaの日本語ページだけでも充実した内容になっているのでそちらに任せるが,日本に始めてきた西洋の大作曲家でもある。1918年にアメリカ亡命を決心したとき,ヨーロッパは世界大戦中の真っ只中だったので,アメリカに向かう中継地とし