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炎上と再興 筥崎宮

前回の続きです。

筑前國続風土記 巻之十八 糟屋郡かすやぐん |箱崎八幡宮 より (意訳) その2

この御社は、亀山院かめやまいん文永ぶんえい2年2月11日(西暦1265年3月23日-27日頃)初めて炎上しましたが、やがて再興しました。幾程なくして、後宇多院ごうだいん弘安こうあん3年9月24日(西暦1280年10月19日-22日頃)、また回禄かいろく(=火事)にあいましたが、造営しました。後花園院ごはなぞのいん永享えいきょう6年6月2日(西暦1434年7月8日-11日頃)、また炎上に及びました。しかし乱世だったので(室町時代だが、南北朝時代の終わり頃)、建てる人もなく、30年の間、仮殿に(神様は)いらっしゃぃました。大内おおうち多々良たたら朝臣あそん持世もちよは、これを嘆いて、後土御門院ごつちみかどいん文正ぶんしょう元年(=西暦1466年)3月に造営を始めました。5年をかかって完成し、遷宮しました。文明ぶんめい12年(=西暦1481年)、宗祇法師そうぎほうしが筑紫に下り、この御社に参詣する紀行(=筑紫道記ちくしみちのこと)に、御殿の大きさは抜きんでており、しかも長い間玉をみがいていました。末社などは、(造営)半ばだけど側に仕えていました、と記載されていました。
本社、拝殿、廻廊、楼門、四門等、形のように造り進められてきましたか、その時代は戦乱が激しく、後奈良院ごならいん享禄きょうろく年の中でまた炎上しました。天文てんぶん年の中、大内義隆おおうちよしたかが本社を建立しました。今(=江戸時代ですが、今も現存)の神殿です。当社遷宮の儀式は、古来の決まりがあって、その費用が多くかかるので、社の人や神官の力では難しく、大内義隆もほどなく亡くなられてしまったので、建立は既に完了したけれど、遷宮ができないので、御神体は尚、仮殿に長くいらっしゃることとなりました。
天正てんしょう15年(西暦1573年)の夏、豊臣秀吉とよとみひでよし公が九州征伐せいばつの後、凱旋がいせんの時に、この宮の本社を本陣としました。20日間ほど滞在し、九州の政治的な取り決めを行ったあと、京へ戻りました。その後、遷宮の儀式を執り行いました。このとき、筑前国を毛利元就もうりもとなりの三男、小早川こばやかわ左衛門佐さえもんのすけ隆景たかかげに賜りました。八幡宮は、弓矢の神と世の中で有名であるので、隆景はとても崇敬して、文禄ぶんろく3年7月、新に楼門を建てました。今(=江戸時代)の楼門はこれです。その上、社領も寄進されましたので、神様の威光も再び新しくなったようです。
慶長けいちょう5年(西暦1600年)、黒田長政くろだながまさ公がこの国を賜った後、五百石ごひゃくこくの神領を寄附しました。慶長14年(西暦1609年)8月、神前に舞台並びに石の鳥居を立てました。
額の文字は、聖福寺しょうふくじ住持じゅうじ九皐きゅうこうの書です。銘の筆者は、家臣の岩崎平兵衛へいべえです。
弁財天の祠も、同年(黒田)長政の夫人が立てました。放生池の中島にあります。(黒田)忠之ただゆき公の時にいたって、ますます尊びあがめられて、新に末社を建立し、社の破壊を修理されました。かつ、神馬を寄進されました。
貞享じょうきょう元年(西暦1684年)8月、(黒田)光之みつゆき公、神前の浜(神社の前の海岸)に、また新しく石鳥居を立てられました。額は近衛このえ右大臣うだいじん基熙もとひろ公の筆です。元禄げんろく元年(西暦1688年)に社前に玉垣たまがきを建立されました。その初め土檣(土柱?)があったので、壊して捨てました。このように御社もますます栄えていきました。すなわちこの御宮所は、世の中に優れてめでたい素晴らしてところです。神殿は乾(北西)に向かっています。四方に松林が生い茂り高くそびえ、その広いことは国内に比べるものがありません。故に十里松じゅうりまつと名付けられました。
朝鮮の人の書いた海東諸国記かいとうしょこくきには、白沙はくしゃ三十里、松林を成していると記載されています。古い歌に、千代の松原と詠まれているのは、すなわちこの場所です。東北は香椎かしい潟がすぐ近くで、北は那多なたの浜、志賀島しかのしま、向かいに長く連なっていて、西は博多に続き、荒津あらつの山浦に近く(福岡市の西公園辺り)、能古浦のこのうら唐泊からどまりも遠くに見えています。全てこの浦の景色は人の心を感動させ、目を驚かすばかりにして、(その気持ちを)言い表す言葉にすることができません。このように他にはない素晴らしい景色なので、大神の神託があって、この地に鎮まりいらっしゃるのも、もっともなことです。すなわちとうの昔は、当社の神領はとても多かったとのことです。されば、文治3年8月3日(西暦1187年9月27日頃)、源頼朝みなもとのよりとも卿は、箱崎大宮司はこざきだいぐうじ親重ちかしげ?を褒めたたえました。
那珂郡西郷、糟屋郡西郷(を与えた)と、東鑑あづまかがみに記載にされています。その神官の遠い孫が今も(=江戸時代)箱崎にいます。文明10年10月5日(西暦1478年11月22日頃)、大内政弘おおうちまさひろの書には、箱崎神領筑前国早良郡さわらぐん倉光くらみつ上下庄かみしものしょう七十町とありました。永禄えいろく2年3月25日(西暦1559年4月26日頃)、筑紫ちくし下野守しもつけのかみ惟門これかどが、那珂郡にて百八十町の地を寄進したことの文書があります。享禄きょうろく年中、箱崎大宮司が私領八十九町あったことの文書があるので、昔の神領が多いことは、これにて想像することができます。

その3に続きます…。



亀山院 … 亀山天皇。第90代天皇。建長元年5月27日(西暦1249年7月9日)-嘉元3年9月15日(西暦1305年10月4日)
文永 … 元号、西暦1264年-1275年。
後宇多院 … 後宇多天皇。第91代天皇。文永4年12月1日(西暦1267年12月17日)-元亨4年6月25日(西暦1287年11月27日)。
弘安 … 元号、西暦1278年-1288年。
後花園院 … 後花園天皇。第102代天皇。応永26年6月18日(西暦1419年7月10日)-文明2年12月27日(西暦1471年1月18日)
永享 … 元号。西暦1429年-1441年。
文正 … 元号。西暦1466年-1467年。
大内多々良朝臣持世 … 大内持世。室町時代の守護大名。大内氏の第12代当主。多々良は福岡市東区の地名で、大内氏が治めていた。朝臣は朝廷の官位を頂いていた敬称。
遷宮 … ご神体のお引越し。
後土御門院 … 後土御門天皇。詳細はこちら。https://note.com/celica371/n/n924c78ebaf94

文明 … 元号。西暦1469年-1487年。
宗祇法師 … 応永28年(西暦1421年)- 文亀2年7月30日(西暦1502年9月1日)。連歌師。
筑紫道記 … 筑紫紀行。宗祇法師の筑紫36日間の旅日記。
後奈良院 … 後奈良天皇。第105代天皇。明応5年12月23日(西暦1497年1月26日)- 弘治3年9月5日(西暦1557年9月27日)
享禄 … 元号。西暦1528年-1532年。
天文 … 元号。西暦1532年-1555年。
天正 … 元号。西暦1573年-1592年。
豊臣秀吉 … 戦国武将。天文6年2月6日(西暦1537年3月17日)-慶長3年8月18日(西暦1598年9月18日)。織田信長の後を継いで天下統一をした。
毛利元就 … 戦国武将。中国地方の大名。明応6年3月14日(西暦1497年4月16日)-元亀2年6月14日(1571年7月6日)。
小早川隆景 … 毛利元就の三男で、小早川秀秋の養父。天文2年(西暦1533年)詳細不明-慶長2年6月12日(西暦1597年7月26日)。
左衛門佐 … 衛門府の官職だが、この頃は朝廷の機能としては有名無実化している。
文禄 … 元号。西暦1592年-1596年。
慶長 … 元号。西暦1596年-1615年。
五百石 … 現代だと1750万円ぐらい。
聖福寺住持九皐 … 博多にある聖福寺第111代住職
黒田長政 … 筑前国福岡藩初代藩主 永禄11年12月3日(西暦1568年12月21日)-元和9年8月4日(西暦1623年8月29日)
黒田忠之 … 筑前国福岡藩2代藩主 慶長7年11月9日(西暦1602年12月22日)-承応3年2月12日(西暦1654年3月30日)
貞享 … 元号。西暦1684年-1688年。
黒田光之 … 筑前国福岡藩3代藩主。寛永5年5月16日(西暦1628年6月17日)-宝永4年5月20日(西暦1707年6月19日)
近衛右大臣基照 … 近衛家第21代当主。慶安元年3月6日(西暦1648年4月28日)-享保7年9月4日(西暦1722年10月13日)
元禄 … 元号。西暦1688年-1704年。
海東諸国紀 … 李氏朝鮮りしちょうせん領議政りょうぎせい宰相さいしょう申叔舟しん しゅくしゅう(シン・スクチュ)が日本と琉球について記述した漢文書籍の歴史書。
白沙 … 美しい海岸の景色(白い砂浜、青い松原)
香椎 … 現在の福岡市東区香椎。
那多 … 現在の福岡市東区奈多。
荒津 … 現在の福岡市中央区荒津。
能古浦 … 現在の福岡市西区、能古島の浦。
唐泊 … 古くは「からこ」「からごう」「韓亭からとまり」。遣唐使等海外からの船が風待ちのために宿泊した場所。
源頼朝 … 鎌倉幕府の初代征夷大将軍。久安3年4月8日(西暦1147年5月9日)-建久10年1月13日(西暦1199年2月9日)。
箱崎大宮司親重 … 筥崎の大宮司、はた親重。
東鑑 … 吾妻鑑。鎌倉時代に成立した歴史書。
文明 … 元号。西暦1469年-1487年。
大内政弘 … 室町時代、周防・長門・豊前・筑前守護大名。大内氏の第14代当主。文安3年8月27日(西暦1446年9月18日)-明応4年9月18日(西暦1495年10月6日)
永禄 … 元号。西暦1558年-1570年。
筑前国早良郡倉光 … 福岡市早良区の辺り。詳しい箇所は不明、要調査。
筑紫下野守惟門 … 少弐氏しょうにし庶流しょりゅう、筑紫氏の一族。筑紫惟門。享禄4年(西暦1531年)-永禄10年(西暦1567年)。本来は下野守は下野国(栃木県辺り)の国守の位だが、この頃は武家官位を表す。
享禄 … 元号。西暦1528年-1532年。

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