見出し画像

後土御門天皇 ~お金のなかった帝

 筑前國続風土記 巻七 御笠みかさ郡 上の竈門かまど山の項から、以下の記事を見つけました。

土御門つちみかど天皇の頃、文正ぶんしょう元年12月(西暦1467年1月頃?)、日本中で大きな地震があった。一國一箇所ずつ、(鎮めるための)祈禱を行うよう命じました。
筑前國は竈門山にて行った。五色綾五十端(五色の綾の旗50幡?)、黄金50両を寄付されました。

筑前國続風土記 巻七 御笠郡 上 竈門山より抜粋 (意訳)

 後土御門天皇は、お金がなかった時期の天皇の一人でした。在位期間は寛正かんしょう5年7月19日から明応めいおう9年9月29日(西暦1464年8月21日から1500年10月21日)まででした。花園はなぞの天皇の譲位じょういを受けて践祚せんそ(=即位)しましたが、わずか2年後に大地震が発生し、その翌年には応仁おうにんの乱が勃発しました。

 上記の記事は、応仁の乱の前年に寄付をしたというものでした。まだこの頃はお金には余裕があったようです。

 応仁の乱は、室町幕府管領かんれい家の畠山はたけやま氏と斯波しば氏の家督かとく争いがきっかけで勃発しましたが、その前年に大地震が発生し国中が混乱したことも、遠因の一つではないかと考えています。

 応仁の乱により、禁領地きんりょうち(=御料地)等からの朝廷への収入が激減し、京都も壊滅的な状態に陥りました。この間、後土御門天皇は足利義政の室町第むろまちだいに身を寄せていたようです。足利義政は政治に無関心で、応仁の乱の間も何度も酒宴を開いていますが、そこに帝も同席されていたとのことです。

 応仁の乱の収束後、帝は朝儀ちょうぎを復活させようとしていました。元旦から始まる三節会さんせちえを行った記録が残っています。また、連歌れんががお好きだったようで、月次で連歌会も催していました。

 明応2年(西暦1493年)に起きた明応の政変で、帝が任命した将軍が廃され、面目を失いました。そのため、譲位を考えますが、譲位をするには儀式に必要なお金がなく、実現できませんでした。その後も何度か譲位を試みましたが、足利将軍家の反対と財政難により実現しませんでした。
※帝の遺憾の意を示すための譲位は古くから行われている方法。

 明応7年6月(西暦1498年7月頃?)及び8月(10月頃?)の2回、大地震が日本中を襲います。特に8月の大地震は南海トラフ級でした。譲位の儀式を行う費用もない帝に、国の復興を賄う費用は全くありませんでした。

 その2年後の明応9年9月28日(西暦1500年10月20日)、御所にて崩御。葬儀の費用もなかったので、40日余りも御所に遺体が置かれたままだったとのことです。


 調べて書いてるうちに、ところどころ突っ込みいれたい気持ちいっぱいです。お金がないのに酒宴してるとか、そもそも復活させた儀式が節会(宴会)とか。足利義政さんと一緒になって宴会とか。
 とはいえ、36年の御世の中で「普通」の大地震が2回と「南海トラフ級」大地震1回と応仁の乱と明応の政変と、現代日本に照らしても大変な事なので、可哀想ではあります。


用語の意味
寛正 … 西暦1460年から1466年
明応 … 西暦1492年から1501年
践祚 … 皇位につくこと。 天子が位につくと,宗廟そうびょう(阼)=東方の階をのぼって祭祀をつかさどるという中国の古典に由来。天皇が践祚(せんそ)の後、帝位についたことを天下万民てんかばんみんに告げる儀式を即位という。古くは即位と同義に用いられていた。
応仁の乱 … 室町時代中期の応仁元年(西暦1467年)に発生し、文明ぶんめい9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。
管領 … 「管領」とは室町幕府の役職で、足利将軍に次ぐ立場。鎌倉幕府に例えると執権しっけんに相当。
室町第 … 花の御所。現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅。室町通に面して正門が設けられたことから室町殿むろまちどの、室町第とも呼ばれた。
足利義政 … 室町幕府第8代征夷大将軍。在職は文安ぶんあん6年4月29日(西暦1449年5月21日)-文明5年12月19日(西暦1474年1月7日)。
朝議 … 朝廷の会議。
三節会 … 宮中で行われたお正月の3つの節会。元日の節会、七日の白馬あおうまの節会、一六日の踏歌とうかの節会。
 ※白馬…初めは鴨の羽の色つまり青色の馬だったが,のち白色が重く用いられ,白馬になった。読みだけ「あおうま」で残ったものと思われる。
明応の政変 … 室町時代の明応2年(西暦1493年)4月に細川ほそかわ政元まさもと日野ひの富子とみこと共に起こした、室町幕府における将軍の擁廃立事件。


2024.1.28 ルビと用語の意味を追加しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?