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博多のお祭り 形を変えて伝わるもの

 初夏の博多のお祭りといえば、山笠やまがさです。現在、各所でかざり山の設置準備が行われています。山笠の期間はきゅうりを食べてはいけないとか、(男性は)女性を抱いてはいけないとか、決まりごとがあるようです。山笠の山は、今は飾り山と、やまに分かれてますが、元は区別がありませんでした。飾り山がそのまま舁き山で、電線がない時代は、それはそれはジェンガのような高さでした。見てみたかったですね。

櫛田神社で準備中の飾り山

筑前國続風土記の中のお祭りの様子はどうだったでしょうか。

筑前國続風土記 巻之四 博多 櫛田社 より抜粋 (意訳)

 この御社は昔は南向きでした。御社の前は大宰府往還おうかんの道でしたが、近世になっても社の土地はそのままで、とらの方角(東北東)に向けて、御社を改修して造りました。鳥居も寅の方角に建てられました。
祭られている神は三座で、中殿には櫛田大明神、左殿には天照大神、右殿には祇園大明神が祀られています。櫛田社はじん王46代孝謙こうけん天皇の御世、天平宝字てんぴょうほうじ元年(西暦757年)に、河内国(現在の大阪府東部)の櫛田社を勧請しました(注:松坂の櫛田神社)。そのため、櫛田社を本社としています。

 櫛田明神とは、天御中主あめのみなかぬしみこと十八世の孫である彦久良伊ひこくらいのみことの御子である大若子命おおわかこのみことのことを指します。垂仁すいにん天皇の時代(三世紀後半から4世紀前半)において、えつ国(福井県敦賀市から山形県庄内地方)には阿彦あひこ?という逆賊が存在しました。そこで大若子命には、勅命と剣が与えられ、阿彦を討伐するように命じられました。大若子命ははた(飾り布)を挙げて敵を容易に打ち破り、その功績を称えられて大幡主尊という名を授けられました。伊勢にも櫛田の社が存在しています。

 また、祇園社では素戔嗚すさのをのみことをお祭りしています。この神様の鎮座には次のような由来があります。朱雀すざく院の時代、天慶てんぎょう4年(西暦941年)に藤原純友を討伐するため、最初の追討ついとう使である小野おのの好古よしふる朝臣あそんが博多の港で合戦になりました。その際、神様の助けを祈願するために、この地に山城やましろ国(現在の京都府南部)の祇園社を勧請したとされています。この櫛田祇園鎮座の説は、九州軍記に記載されています。

 天照大神を合わせてお祭りしたことについて、具体的な時期は明確ではありません。この神様は2月5日に神輿みこしで沖の浜(現在の沖の浜町、中央ふ頭)にお渡りになり、北荻ほくてき(=まつろわぬ民)退治の神事が行われていたと伝えられていますが、現在(=江戸時代)は行われていません。また、6月7日には沖の浜にお渡りになり、えびす社に留まられ、6月13日には本社にお戻りになる神輿のお渡りの神事もあったとのことですが、現在は行われていません。

 しかし、6月15日には祇園の祭礼が開催されます。この祭りでは猿楽さるがくも行われます。また、大きな作り山が造られ、博多中を担いで歩く様子が特徴です。この祭りは花園はなぞの院の永享えいきょう4年(西暦1432年)の6月15日に始まりました。かつては作り山の数は12基あったのですが、その後減少し、現在(=江戸時代)では6基となりました。作り山は木で高い台を作り、周囲を布で包み、人形のようなものを置き、古い故事に基づいた衣服や甲冑を身に着けさせ、兵杖を持たせ、旗やのぼりを掲げ、様々な場面を表現します。これを担ぎながら社の前に進み、その後は博多の町中を歩きます。京都の祇園と比較しても、博多の作り山は非常に大きなものでした。さらに、毎年異なる模様を作り変えるため、作り方は一定ではありませんでした。この祭りは現在(=江戸時代)まで受け継がれ、続いています。
 この祭りの日には近所の武士や庶民だけでなく、筑前国全域の男女や隣国からの観光客も集まります。作り山を見るために、博多の町に訪れ、集まる人々は沢山いました。作り山の通る場所では、道は見物客で一杯になり、暑い日でも押し合いながら狭い中に収まり切れず、非常に混雑していました。このような多くの人々が集まる祭りは、他の国でも稀な光景です。雨が長く降り続いて作り山の準備ができない場合、遠くから作り山を見に来た観光客たちは滞在日数が延びるため、貧しい家では供応することに飽きてしまい、お互いに気が抜けている様子は面白いです。
 山口の周防すおうでも、毎年6月14日には祇園のお祭りとして、21基の飾り山が作られており、博多の山に似た雰囲気です。これは大内氏が全盛期の頃、京都の祇園祭りから学び、その要素を取り入れています。同時に、博多の山にも学びながら制作されています。

 また、11月の第二の卯日には新嘗にいなめ祭が執り行われ、現在(=江戸時代)でも継続されています。これらの祭りは櫛田社の神事です。さらに、年間を通じてさまざまな小さな祭りも行われていましたが、その作法は現在(江戸時代)には伝承されていません。


 風土記のいう6月15日の祇園の祭礼が、現在の山笠のお祭りですね。江戸時代も沢山の観光客がきて大賑わいだったようです。
 櫛田神社では、山笠以外にもいろいろなお祭りがあります。風土記に記載されている11月の新嘗祭ですが、現在は「博多おくんち」として、1ヶ月繰り上げた10月23日、24日に行われています。
 風土記では2月5日、6月7日の神輿のお渡り神事は絶えて行われていないとのことでしたが、現在、博多おくんちの中で、御神幸ごしんこう行列があり、博多埠頭の浜宮にて浜宮祭・神輿潔めが行われています。「櫛田宮」「大神宮」「祇園宮」の神輿が交代で1基、行列に参加します。25年に1度の御遷座ごせんざ周年の節目には3基が揃って行列に並ぶとのことです。全く失われたというわけではなく、形を少し変えて続いているようで、安心しました。

祇園宮の神輿
櫛田宮の神輿

 御神輿は3基あり、大神宮の神輿の写真が撮れていませんでした…。

 山口の周防でも祇園のお祭りがあるようです。当時は山笠に似て飾り山が21基もあったようです。現在は山口祇園祭になっていますが、市街の電線架設其の他の関係によって飾り山を見ることは出来なくなってしまったようです。

 福岡の飾り山は7月1日に完成し、市内各所に設置されます。7月15日の早朝、山笠のクライマックスである「追い山」が開催されます。早朝でも沢山の観光客が詰め掛けます。福岡ではTV中継もあります。
 山笠が終了すると、博多に本格的な夏がやってきます。

櫛田神社本殿

用語説明
天平宝字 … 元号。西暦757年-西暦765年。
孝謙天皇 … 重祚して称徳しょうとく天皇。第46代天皇。女性の天皇でもある。孝謙天皇としての在位は、西暦749年8月19日 -西暦758年9月7日。
垂仁天皇 … 第11代天皇。3世紀後半から4世紀前半の大王。
天御中主尊 … 日本神話に登場する神様。
越国 … 現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部。
朱雀院 … 朱雀天皇。第61代天皇。在位は西暦930年10月16日 -西暦946年5月23日。
天慶 … 元号。西暦938年-西暦947年。
後花園院 … 後花園天皇。第102代天皇。在位は西暦1428年9月7日-西暦1464年8月21日。
永享 … 元号。西暦1429年-西暦1441年。

九州軍記 …
了圓りょうえんによる慶長けいちょう十二年(1607年)四月と記された序によると、軍記は肥前ひぜん国草野村において、烏笑軒えしょうけん常念じょうねん(文禄四年(1595年)没)、草野くさの入道にゅうどう玄厚げんこうによって書き継がれ、慶長六年(1601年)に完成したとのこと。
九州軍記そのものの文章は確認できないので、今後の調査課題です。
筑前國続風土記拾遺に以下の記述有。
「九州軍記に天慶四年藤原純友追討使小野好古朝臣博多にて合戦し、其功遂難きにより東長密とうちょうみつ寺の法印ほういん阿闍梨あじゃり尊圓そうえんと心を合て山城國祇園大明神を勧請すとあり。」


2024.1.16 ルビを追加しました。





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