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ルノー4L、発射台に立つ! イーロン・マスクが思いつくより前にあった”ロケットカー”

 スペースXの超大型ロケット「ファルコン・ヘヴィ」が初めて打ち上げられたのは、6年前の2018年のことだった。

 いまでこそ、さらに巨大な「スターシップ」が登場したことで、やや存在感が霞んでしまったが、大型ロケットを束ねて強力なロケットにするというそのわかりやすい見た目や、分離された2本のブースターがほぼ同時に着陸する光景などは、いまなおロケットオタクの心をくすぐる。

 そのファルコン・ヘヴィが初めて打ち上げられた際、マスク氏所有の「テスラ・ロードスター」が載っていたことが大きな話題になった。ダミー衛星の代わりとはいえ、真っ赤なスポーツカーが宇宙を疾走する様は、宇宙開発の歴史に残る痛快な出来事となった。

ファルコン・ヘヴィで打ち上げられたテスラ・ロードスター (C) SpaceX

 ところで、それよりも前に、少しだけ似たような出来事があった。1975年、南米仏領ギアナにあるギアナ宇宙センターのロケット発射台に、一台の自動車が据え付けられたのである。

ディアマン・ロケットとフランスの宇宙開発

 この当時、フランスは「ディアマン」という独自のロケットを運用していた。ディアマンの初期型である「ディアマンA」は、1965年に人工衛星「アステリックス」を打ち上げ、フランスは世界で3番目に、自力で衛星を打ち上げた国となった。

 ディアマンは、その後も改良を重ねながら運用が続けられたが、打ち上げ能力は高度約200kmの低軌道に約150kgと、きわめて小さなもので、ソヴィエト連邦や米国のロケットから大きな差をつけられていた。

 そこで、同じように大きなロケットを欲していた英国が旗振り役となり、フランスやベルギー、西ドイツ、イタリア、オランダが集まって、共同で大きなロケットを開発することが決定された。そして1962年、「欧州ロケット開発機構(ELDO)」が立ち上げられ、「ヨーロッパ」ロケットの開発が始まったが、衛星打ち上げは失敗の連続だった。

 1971年には英国が抜け、フランスとイタリアが主導する形で改良し、起死回生が図られたが、結局一度も人工衛星を打ち上げることができないまま、1971年に計画は中止されることになった。

 しかし、独自のロケットが必要な状況には変わりなく、またディアマンでは力不足であることも変わりはなかった。なにより、米国から商業目的の衛星の打ち上げを拒否される、いわゆる「シンフォニー事件」が起きたことで、欧州独自の大きなロケットの必要性は決定的なものとなった。

 そして、フランスが中心となり、あらためて欧州共同で大きなロケットを開発する計画が持ち上がり、1973年にL3S計画、のちに「アリアン」と呼ばれることになるロケットの開発計画が立ち上がった。

ディアマンの最終ヴァージョンである「ディアマンBP4」の打ち上げ (C) CNES

発射台に立ったルノー4L

 一方でディアマン・ロケットは、アリアンの開発が決まったことで、運用を終えることになった。1970年代初頭には、ディアマンを改良し、打ち上げ能力を向上させる発展型の構想もあったが、すべてアリアンの開発計画の前に捨て去られた。

 そして、1975年9月27日、ディアマンの最終ヴァージョンである「ディアマンBP4」の最終号機が、ギアナ宇宙センターから打ち上げられた。ロケットは順調に飛行し、搭載していた科学衛星「オーラ」を軌道に投入した。

 "事件"が起きたのは、その直後のことだった(詳しい日時は不明だが、おそらく数日後だろう)。ディアマンのチームは、ディアマンの運用終了と、それにともなうギアナ宇宙センターの人員削減を記念し、発射台の前で式典を開いた。

 そして、その発射台に、どういうわけかフランスの自動車メーカー、ルノーの乗用車「ルノー4L」が据え付けられたのである。

ディアマンの発射台に据え付けられたルノー4L (C) CNES

 車体には、「CONFIGURATION B」と、「DIAMANT BR4」という文字が入っている。「CONFIGURATION B(コンフィギュラシオンB)」は、ギアナ宇宙センターの人員を大幅に削減する計画の名前で、「DIAMANT BR4」は、「ディアマンBP4」とルノー4Lを略した「R4」をかけているのだろう。 

 もちろん、このルノー4Lは、ただ単に発射台に載っているだけであり、飛び立つことはなかった。写真には防護服を着ている作業員が写っており、ロケットの推進薬のような危険物を扱っているようにも見えるが、左下には普段着でマイクを持った人もいるため、おそらく防護服はパフォーマンスや演出の一環として着ているだけで、実際には危険な環境ではなかったのだろう。

 ディアマンの上に載せられたわけでもなく、そもそもルノー4Lの質量は600kg以上もあり、前述のように地球低軌道への打ち上げ能力が約150kgしかないディアマンで飛ばすことは到底できない。

 このときのことを、かつてアリアン計画の責任者を務めたRaymond Orye氏が、2002年に行われたESAのオーラル・ヒストリー・プロジェクトの中で、次のように回顧している。

 フランス国立宇宙研究センター(CNES)の退職者で覚えている人もいるでしょうが、ある逸話があります。

 1975年、最後のディアマンBP4ロケットが打ち上げられました。これは同時に、アリアンの最初の打ち上げを待つ間、ギアナ宇宙センターの人員を大幅に削減する計画「コンフィギュラシオンB」が始まることを意味していました。

 この打ち上げ後、ディアマンのチームは、ディアマントBP4プログラムの終わりとコンフィギュラシオンBの始まりを記念し、当時センターの公用車だったルノー4Lを、発射台に据え付けたのです。

 当時、CNESのセンター長を務めていたMichel Bignier氏は、その車を前にスピーチを行いました。彼は、これからギアナ宇宙センターを待ち受ける困難を前に、感極まり、式典の終わりには涙を抑えることができませんでした。

 また、当時のギアナ宇宙センターの責任者だったHubert Bortzmeyer氏は、コンフィギュラシオンBにとても失望し、式典のあと、同センターを退職することになりました。

Par David Redon. ORAL HISTORY OF EUROPE IN SPACE, INTERVIEW DE RAYMOND ORYE. European Space Agency, 19 novembre 2002.

(なお、筆者はフランス語がわからないため、翻訳ソフトで訳しており、正確ではない可能性が高いことに留意されたい)

そもそもなぜ車を発射台に立てたのか

ルノー4L (C)  ESA/Walter Naumann

 もっとも、そもそもなぜ車を発射台に立てたのかという、その動機や理由に関しては疑問が残る。「ディアマンの運用終了と、センターの人員が削減されることを記念する」ことと、「車を発射台に立てる」ことの間には、ちょっと結びつきが見出せない。

 残念ながら、現時点で入手できた資料からは、その答えは見つけられなかった。

 ただ、両者には当時のフランスにとって、科学力・技術力、工業力の象徴のような存在だったという共通点がある。

 ルノーの公式の解説によると、「ルノー4Lは1961年から1992年の間に、29か国で813万5424台が生産され、世界で4番目に多く生産された車」となっている。1975年の時点ですでに国民車、大衆車となっており、それが同センターの公用車になった理由でもあろう。

 一方のディアマンも、ソ連と米国に次いで世界に3番目に衛星の打ち上げに成功しただけでなく、その後も比較的高い打ち上げ成功率を誇り、信頼性と実績のあるロケットだった。

 つまり、ルノー4Lをディアマンの発射台に立てることで、ディアマンも同じように、フランスの科学力・技術力の象徴であり、誇りであると示す狙いがあったのかもしれない。

 それは世界に向けたものだったのかもしれないし(ただ、それにしては外部に向けて積極的に広報した様子は見られない)、あるいはディアマンを潰してアリアン計画を進めることを決めた、CNESの上層部やフランス政府に対しての当て付けの意味も込めていたのかもしれない。

 いずれにしても、この出来事からは、スペースXほどではないにせよ、当時のフランスの宇宙開発にはある種の遊び心や余裕があったことがうかがえ、それが開発や運用の現場に好影響を与えていたことは想像に難くない。

 実際、ディアマンは廃止されたものの、CNESと、製造を担当していたSEREB——のちのアエロスパシアルは、ディアマンの技術やノウハウを活かして「アリアン1」を開発し、1979年に打ち上げに成功した。その性能は、ルノー4Lを8台まとめて地球低軌道に打ち上げられるほどだった。

 アリアンはその後も改良や発展を続け、現在に至るまで、八面六臂の活躍を果たしている。

参考文献

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