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航空産業の規制緩和とクルーズビジネスの影響


第二次世界大戦後、軍用航空機製造会社は、商業旅客機の建造に切り替えました。

1960年代では空路を利用した海外旅行は、まだ庶民には手が出るレベルではなかったのです。

しかしハリウッド映画やテレビの番組は、多くのアメリカ人は海外旅行への憧れや自分たちの生活様式の変化を刺激していたのです。

アメリカの航空会社は、当時 は未だ新しい分野でもあったファッションなどのライフスタイル系メディアが飛行機によるヨーロッパ旅行の利便性や新しい旅行スタイルを宣伝したこともあり、アメリカ人が大西洋を横断する旅行は着実に増勢傾向を見せていたのです。

時間に対する感覚も大きく変わってきました。

大西洋を挟む国際間の人流は、従来の定期客船から、急激なスピードで空の旅へとシフトが進みつつあった。大西洋ではパン・アメリカン航空(現:ユナイテッド航空)がヨーロッ パとアメリカの本土を海で結ぶ豪華客船と対抗すべく、快適でサービスの行き届いた機内の雰囲気を売りにしていたのです。

パン・アメリカンによる世界一周便の出現は1947年。

かたやイギリスの BOAC は、 1949 年に投入されたコメット機で、ニューヨークからロンドン間初飛行を1958年に行い、ジェット機時代の到来を確信。

欧米の主要港間の点と点を結ぶ北大西洋航路船客輸送も スピードと利便性を宣伝するジェット機を主力とする航空会社に顧客を取られ、撤退を余儀なくされるのでした。

大西洋の女王で、豪華客船の代表であった「クイーン・メリー号」もアメリカロサンゼルスに安住の地を求めることとなる。

1969 年のボーイング 747 型機の所謂「ジャンボ機」のテスト飛行による初飛行、翌年1月のパン・アメリカンによるアメリカ主要都市とヨーロッパの主要都市間の定期空路開設で、ジェット旅行時代の到来、空の「大量輸送時代」へと変質して行くことになる。海外旅行におけるマ ーケットシェアとスケールメリットコンセプトが幅を利かし、アメリカの航空会社を中心とした炸 裂な集客戦争画展開される予兆でもあったのです。

このような時代背景の中、アメリカのカーター・レーガン政権の主導する「規制緩和」はこの空の 競争を、更に勢いをつけさせることとなった。カーター大統領は、78 年 10 月 24 日航空会社規制緩 和法(Airline Deregulation Act of 1978)に署名、その後、次のレーガン大統領に引き継がれた規制緩和関連法は「航空機の大型化」と「サービスの規制緩和」の2つの側面を持ちながら、更に厳しい自由競争「空の大競走時代」に突入。

1991 年にはアメリカにおける航空業界で国際線の雄として一 時代を築いたパン・アメリカンの国際線の権益が、ユナイテッド航空に、東岸での有力会社であっ たイースタン航空が、デルタ航空に吸収されたのです。


サービスのサプライヤーである航空会社は、更なる新しい需要の掘り起こしが必要隣、より自由で多様な料金設定実現のためコンピュータ化を推進。

臨時便増発などを背景にクルーズ会社を含めた大口旅行グループとの大口個別契約や、マイ レージ・システムなどを含めた顧客ロイヤリティ・システムの導入で、客層の囲い込みに入り、リ ピーター層の確保を担うこととなった。運行面においても、スケールメリットとコスト減を求めて いる「ハブ空港コンセプト」を導入したのです。

航空業界の規制緩和による環境の急変は、カリブ海クルーズの大衆化に大きく貢献した。クルー ズ会社は、航空会社との新しいつきあい方が、全米からの集客力にも影響を与えるようになったのです。

カリブ海型「ゾーン(海域)」を対象とするクル ーズ 会社は、クルーズによって集客した全米に広がる船客をマイアミの様々なホーム・ポートに集めるかが、非常に重要な、ロジスティック戦略のイロハになった。マイアミやフォートローダデルなどクルーズの基点となる港には、 年間数百万人単位のクルーズに乗下船する通過客が存在するのです。

彼らの多くは、全米の各年から集められ、基点港まで航空機を利用することになる。乗船客と下船客が大手航空会社にとっては、往復パッケージの格好の「グループ旅行客」と見えたと思われます。

航空会社としては、クルーズ会社は彼らを抑える船客や船上従業員などの大量予約という旅行層の癖を抑えており、魅力的な顧客であった。航空会社との連携で、航空機との組み合わせた船旅が一般的になり、多くのクルーズ会社は、社内に航空券発券システムを持ち、クルーズ料金に航空料金も組み込む、空港も巻き込んだロジスティックを構築したのです。

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