4月10日気温25度 最高気温は平年より全国的に高い1日、、、、、、ですけど、なにか?

今日は家族で遊園地に来ている。長男が今週入園式を無事に済ませたお祝いである。

全体写真の寸前まで、自慢のキャンプハットを外さなかったのは我が子らしいこだわりだが、6列に規則正しく並べられた椅子に半刻あたり興味ないながらに座ってたのは感心した。

はたして自分はどうだったんだろう?と考えることがゴーカートまで意識を保つ唯一の手段であった。それほどに今日は暑い。麻の通気性のよい長袖シャツこそがベストであったが、それは2年前からクローゼットで見てないので、すぐに諦めはついた。

妻の荷物を引き継ぎ、密林アマゾンのツアーコンダクターのように数メートル先を歩いては振り返る。無事ゴーカートへのアテンドが済むと、携帯に文字を打ち込む。


友達とは?

 note のトップページにある検索窓に打ち込んだ。上から10件を順に読み、すべての記事にスキを押した。

みんな自分の見せ方、見られ方に悩んでるらしい。テトリスの長い棒のようにピッタリとはハマらないが、モヤモヤする気持ちを何段かは消してくれた。

息子が興奮した様子で戻ってきた。
手を取りに行き、次のアトラクションに向かいかけっこする。


コロナの影響が大きいのだと思う。友達とは空気のように必要なものだと思っていた。だが、前代未聞のウイルスに遮断された。

それでも、うまく回ってる。
そんなものだ。
なら、それでいい。


人間は文字のとおり、人の間に存在する。深夜ラジオの帝王も、ものごとに困ったら、「と」 を付けさないと言った。
わたし 「と」 仕事。
ぼく 「と」 友達。

その関係性こそが本質じゃないかと。つまりぼくは、ぼく本体であると思ってたけど、ぼくは「と」というパーツなのだから対象次第で変わるのだ、変わっていいのだと深読みした。


ジャズのようなその即興性が人間の醍醐味である。古くからの友達だから、こういう性格だからと型に押し込む作業とは水と油である。ただ水と油はよく振ればドレッシングになるので、大切なのはバランスである。


型に押し込もうとする作業に、流行のマウント、他人を管理したいなどの思惑を感じるのだろう。それは自分を一階級上だと妄信しているからする行為であり、だから他人を批評するのだろうと行き過ぎた理論ファイルが開きそうになるので、慌てて右上のバツボタンを押す。

フリーズしたところで、落ち着いてファイルを保存しないを選択する。周りの風景が輪郭から目に入るようになり、ふと思った。


遊園地について思うことはグーグルと同じだが、ぼく「と」遊園地なら、そういえばここは中学生の時デートで来たことあったなと、クシャクシャになった麻のシャツが洗濯機の奥から出てきたのような気持ちになり、今日は儲けもんと微笑んだ。




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