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第8話「還俗」

朝7時、大使館3階のインターホンが鳴った。まだ配達の人が来るような時間ではない。ドアを開けると先週出家させたばかりでもういるはずのないM君が立っていた。最悪の休日の目覚めだった。

1週間で終わってしまった修行

すごいひと「なんで居るの?」
M君「寺の人に帰らされました」

本来3ヶ月は帰ってこないはずだったのが1週間で帰ってきてしまった。すごいひとにも理解が追いつかないが一つずつ整理していく。

元々M君自身が「出家」と言っているだけのサブカルなので、仏教を学びたいという志も無ければ住職になりたいわけでもない。当然こんなものは本来「出家」とは呼べない。それは重々承知の上で大使館から追い出したいという一心で送り込んでいたのだが、そもそも寺としても禅の体験修行のような形で受け入れをしている施設であって本気で修行する目的以外の人も多く来ているであろう場所だからそこにしたという理由がある。

それもあって格安ではあるが宿泊費(寄付金という名目)が必要だったり長時間の外出自由な自由時間があるなどの特徴があり、体験感覚で観光客や暇な学生なんかがノリで来てもおかしくない場所であった。それでも一応HPには常住と言って無期限で寺に滞在し宿泊費はかからないが寺の運営や他の宿泊者の世話をしながら住職を目指す人の項目が記載してあったため、「もう常住にしなよ1週間とは言わずずっとやってきなよ」と言って送り出したのだった。結局そういう心構えであった以上「いつかM君が大使館に帰ってきてしまう」という問題を先送りにしただけだったのだが修行は始まり、大使館のシーズン1が終わり。すごいひとの心の平穏が一時的に返ってきたのだった。

話は3階の玄関先に戻る。M君曰くその寺では以前からM君みたいなサブカル感覚で出家に来るカスに頭を悩ませていたため常住の受け入れは事実上行わないという方針だったらしい。実家が寺であるとか本気で住職を目指しているとか同じ宗派の住職の人の推薦状があるなどの相応の覚悟や熱意を示す準備があれば受け入れてくれたのかもしれないが、それがわかるほどアスペは軽くない。現地でのいわば「お客さん」期間の間に「そういや常住やりたいンスよね」と言ってやらせてくれるものだと思っていたらしい。実際ちゃんと住職を目指して本気で勉強している常住の先輩はいたらしいので方法や覚悟の見せ方がおかしかったのだろう。

寺の真っ当過ぎる対応を聞いて納得することしかできない。それにM君のようなしょうもないサブカル出家が以前から問題になっていたと聞き驚いた反面、寺の人たちへの同情と申し訳なさが溢れてきた。本人自身は剃髪もしていて覚悟があるとか言っているもののこんな障害者のサブカルの相手をさせてごめんなさいという気持ちになってきた。だからと言ってすごいひと自身がずっと面倒を見るわけにはいかないし嫌すぎるのだけれど。

余談だが、すごいひとも寺まで一緒に行ってM君を置き去りにしてきたからなんとなく様子を知っているのだが、確かにあれは本気で出家をしているような人はほぼ見当たらなかったと今思い返してみるとそんな気がする。住職らしき人にすごいひとが挨拶をした時もM君の「先輩」が7,8人居たのだが、なぜか全員こちらを見ないで怯えていた。なんで怯えていたかとかは察してほしい。でも同時にM君に相応しい場所であるとも思った。だから1週間も居させてくれたんだろう。

修行の様子

05:20 起床
05:40 太極拳
06:00 坐禅
07:25 朝食
09:00 朝課
09:20 掃除
09:40 作務
12:00 昼食
17:00 夕食
18:10 法話
19:00 坐禅
22:00 消灯

一日のスケジュールは簡単に書くとこんな感じ。空いている時間はほぼ自由時間だったり外出が許されている時間なので結構ゆるい。M君はその空き時間を使って受験勉強をしたかったらしい。こうした修行の中でM君は「生活」というものを学習し毎日朝早く起きることや毎日掃除をすることの大切さを学んだのだという。「すげぇ、これが禅か…」と言って。

そういうわけでこんなに低い志で修行したにも関わらず本人は「本気で常住したかったのに残念」「昔、寺に押しかけて来た障害者たちのせいで常住やれなかった自分は犠牲者」とか「大使館に帰ってからも毎日朝早く起きます(小学生並の感想)」と言っているのですごいひともわざわざ京都まで背中がバキバキになり寝不足になってまで行った甲斐があったのかもしれない。まぁ小学生とかが夏休みとかによくやるおぢばがえりとか部活の合宿くらいの成果みたいなものだろう。25歳でもそれがわかってよかった。

パイセンたち

M君が修行している間に尊敬できる立派な先輩たちと、想像を絶する低さの人たちが居たらしいのでついでに紹介しておこう。当たり前だが、立派な人たちは前述したような本当の「出家」に来たような人たちで毎朝誰よりも早く起きて食事の準備などの宿泊者たちの世話や寺の運営の仕事を一日中していて、住職になるための勉強を夜遅くまでしているという人たちのことである。当然文句の付けようのない「立派さ」である。もしかしたらM君は人生でそういう「立派な人」に出会ったのが初めてか認識できたのが最近になってからという段階なのかもしれない。少なくとも大使館に立派な人はいないので。

低い方のエピソードは2つある。1つ目は大使館の「お母さん」に連れられてきたM君が言えた話なのかはわからないが、「リアルお母さん」に連れられて寺に置いて行かれた成人男性がいたらしいのだが数日間宿泊した後に突然失踪してしまったらしい。深く事情を知る術もないが何か本人自身の闇が深そうな話である。2つ目は寺に修行しに来た女性をナンパするカスのことである。意味不明だがそんな奴がいて即追放されたらしい。あとM君的には「ナンパの仕方もすごくきしょかった」らしい。たまたま寺におかしい人が来てしまったということだろう、M君も含めて。

そういう自分以下の存在と立派な人たちと両方を見てきてM君は1週間といえどちょっとは発達したらしい、少なくとも本人はそう言っており毎朝早く起きてはいるそうなのだから本当にそうなのかもしれない。相変わらず何言っているかわかんないし、金ないし意味わからん無駄遣いばかりするのだけれど。

帰京

すっかり忘れていたが、修行の日にすごいひとがスマホ(修行の日からずっとすごいひとがソシャゲのログインボーナスを毎日もらっておいてあげていた)を没収した上に全財産が1000円しかないM君がどうやって東京まで帰ってきたのだろうと聞いてみた。答えは簡単で関東方面まで車で行く人がたまたまいたから便乗させてもらったらしい。なんなんだよそのガッツは。ちなみにすごいひとはM君が出家前に「最悪金なかったらキセルで出家しに行きます」って言っているのを聞いたのでそれで帰ってくるのかと思い肝を冷やしていた。別に自分の知らないところで犯罪やっていても知らないしやっているんだろうが、なんか犯罪の話を聞かされたくなかったから。

謎のところでガッツを見せて(一応)交通費の節約にも成功したM君だが帰ってきた日に「食事まだっすか?天や行きましょうよー」とか言ってきた。もう一度繰り返すがこいつの全財産は1000円でそれで今月残り1週間生活しないといけない無職である。掃除や早起きの大切さ以外も学んできて欲しかった。これが修行の成果か。


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